小林彰太郎さんを偲んで・・・カーグラフィックはいつも頑固おやじみたい? |
今月号のカーグラを読んで、亡くなった小林彰太郎さんの最後の様子を初めて知りました。
不謹慎かもしれませんが、人生におさらばするならこんなやり方で!と誰もが羨むような亡くなり方ではないですか!
ジャーナリストとしても人間としても最後まで現役のままめいっぱい生きていたことが良くわかります。
そしてスタイリッシュだった彰太郎さん、最後までそのイメージを崩さなかったのですからさすがです。
自分が撮り続けた大事な写真を集めた本が上梓され、その出版記念パーテイ兼ファンの集い?を豊田市で開催されたそうです。
沢山のカーグラ(小林)ファンが集まり小林さんの講演を聞き、新しい本のサイン会も行われた様子、その催しも盛会のうちに無事終了し、帰り道の渋滞を避けるためロケで行きつけの御殿場のレストランに立ち寄り夕食を取り(なんとステーキをペロッと召しあがったそうです!)その後何事もなく帰途につき、その翌朝には旅立っていたというのですから、実に見事な幕の下ろし方と言えるでしょう。
僕がカーグラフィックを読み始めたのはかれこれ40数年前のことになるのでしょうか?
正確な年月はともかくとしてひと昔といよりはふた昔といった方が良いほどの昔の事です。
当時のカーグラは正確な発行日がだいたいしか決まっておらず、発行日近くになるとといつ出るか、もう出たか、と毎日本屋さんに通ってしまうほど発売が楽しみでした。
普通は雑誌というと編集長の顔などは見事に登場しないのですが、なぜかーグラを読んでいると編集長の顔はおなじみになってしまいます。
あのシャーロックホームズを思い起すかのようなお顔と英国風のファッションはまさに英国車にぴったりでした。
そして正しい車を正しく紹介するという背筋のピーンと伸びたような編集方針は実に小林編集長の端正な風貌とぴったり重なるのです。
そんなブリテイッシュ一色に見える小林さんですが、ランチャ・アウレリアを持っていたようにイタリア車もお好きだったようで、最後に購入した車がFIAT500 アバルトのマセラッテイ仕様だと聞くと、まだまだ新しい物を探求する好奇心と御洒落心を持っていたのだと嬉しくなります。
僕がカーグラに夢中だった頃、国産車はまだまだ欧米の車に劣っていました。
日本の車がこれほど世界を制覇するなど誰ひとり想像していなかった時代です。
ヨーロッパがすでにデイスクブレーキとラジアルタイヤになっていた時代にまだまだ日本はクロスプライタイヤにドラムブレーキだったのです。
そのころ僕のあこがれの車はミニでした。あの小さなエンジンと車体に大きなフォッグランプを付けてリアルスポーツカーのポルシェと渡り合っていたモンテカルロラリーの雄姿は今思い出しても胸ときめくものです。
それは今の人たちがミニをかわいい車ね!みたいに眺めているのとはまったく違った、まさに硬波のためのスポーツ車だったのです。
その頃はとても高価だったので、日本ではミニの姿はほとんど見ることは出来なかったように思います。
4気筒の4ドアセダンに当時最大級の2,000cc、6気筒エンジンをノーズ伸ばして無理やり乗せた高級スポーツセダン(それにしても今思うと随分乱暴なことしたもんです!)のスカイラインGTの倍以上の値段がしていたはずです。当時のスカイラインGTも特別な車でしたが、ミニはさらに特別で、今でいったらアウデイのR8くらいの感じだったかも知れません?
ちなみにその後ミニが生産を辞める直前には日本が世界で一番ミニが売れている国になろうとは!
そして生まれ変わった新ミニのプロトタイプの写真を見てそのあまりにのっぺりした姿に、こんなのミニじゃない!と思ったBMWのミニ(それにしてもBMWがミニを作るとは!)が世界中でこれほど人気が出ることなど、僕もそうですけど、誰も想像もできなかった時代でした。
ほんとに世の中は想像以上に驚きとハプニングに満れているものです!
カーグラでミニの試乗記を読んだはずなのにすっかり忘れて思い出すことができません。
ところが今でもはっきり覚えている試乗記があります。
それが小林彰太郎さんが書いたアストンマーチンDB6の記事です。
当時のアストンはその実物の姿を路上で見かけることのないようなほとんど雲の上の存在でした。
それは僕の記憶の中にしっかり根をおろして、その時に一緒にアストンに乗っていたかのようにさえ感じてしまうほどです。
確か当時のアストンにはサスペンションの硬さを調節する機能があり、それを固めにして段差を乗り越える時の感触などもまるで実体験のように思い出すのですから、小林彰太郎さんの文章のうまさと、アストンに対する情熱がひしひしと伝わってきていたのです。
カーグラ独特の表現というのも恐らく小林さんの個性が発揮された部分ではないかと思われます。
ただ硬い乗り心地というのではなく、硬いが快適であるというニュアンスを取り入れたファームという言葉の使い方や、こうでなくてはならないと言う啓蒙的な言いまわしも特徴的でした。
今では一般的になったワインデイングロードという言葉を使ったのもカーグラが最初ではなかったでしょうか?
テストの方法も独特でした。リアカーのタイヤのようなもの(第5輪)を後ろのバンパーに取りつけて最高速度を測る方法で初めて正確な速度を計測できたと、きわめて誇らしげに紙面を飾っていたものです。後ろのバンパーにこの5輪を付けた写真も随分と目にしたものです。
そんなカーグラが車だけでは読者の興味を繋ぎとめることが難しくなってきて?車を含めたスタイル雑誌として「NAVI」を生み、ついには「これが車雑誌?」と思わず疑うほど時計と洋服!でうまった「ENGINE」を生みだすのですから、雑誌を見ていると時代の移り変わりというのが良くわかって実に興味深いものがあります。
そんな中で一時はカーグラにも迷いがあったようにも見えますが、書道で有名な雑誌社である二弦社から独立し、雑誌の名前そのものが社名になってからは昔の頑固さを取り戻したかのように感じます。
そこからは車を含めたライフスタイルなどと言う曖昧なものは少なくなり「おれは車が好きなんだ!」というシンプルでわかりやすいメッセージが再び熱く語られるようになった気がするのです。
同時に「かつて車とはこんな素晴らしい物だった!」ということをきわめて真剣にかつ真面目に残して置こうという強い意思が感じられるのです。
そしてその強い思いこそ、小林彰太郎さんが残していったものなのではないでしょうか・・・?
やっぱりカーグラはいつまでも頑固親父のようでいてほしいものです。
小林彰太郎さんのご冥福とカーグラフィックが末永く続くことをお祈りします。(それまで松任谷さんも頑張ってね!)