不思議な絵巻?【一遍上人聖絵】を見てきた。(その2) |
上の写真は近所の神社です。普段は境内で子供だけが遊んでいるようなひっそりとした神社ですが、行ってみると立派な銀杏が色づいていました。
さて次に僕が不思議に感じたのは一遍さんが訪ねる場所に神社が多いことです。
かねがね僕が興味を持っていることに宗教の寛容性ということがあります。たとえば一神教であるキリスト教においては他の神を礼拝することは立派な罪の一つです。
それが日本では結婚式は神前で行いお葬式は仏式で行うというのがごく自然でだれも不思議に思わないというのが逆に不思議だったのです。ところが調べてみると明治政府が神仏分離政策を取るまでは日本では神仏習合が行われていて神社とお寺の区別はなかったようなのです。(今でも浅草の浅草寺の境内に神社があるのはその名残です)
たとえば外国人に宗教を尋ねられたとき初もうで神社に行き、お葬式でお線香をあげる自分はいった何教なんだろうと混乱してしまう人が多いのは当たり前で、神仏分離政策がなければ初もうでと仏教のお葬式はもともと共存していたのです。(学者でも研究者でもない僕の見解なので鵜呑みにしないでくださいね!)
(以下の写真はすべて時宗の総本山、遊行寺の写真です。)
しかし考えてみるとこれは素晴らしいことです。一神教の持つ不寛容性というものがどれだけ世界に混乱を起こしてきたか、そして現代の様々な事件を思うとき、日本人の宗教的な寛容の精神というものは今こそその価値を見直す必要があると思うのです。
もっともこの寛容の精神もすっかり商売に取り込まれて今ではクリスマスの飾りつけがどこのキリスト教国より立派で派手な国になり、さらにはハロウーインまで国民的お祭りになろうとしているのですから凄いものです!
とそんな目でこの一遍上人聖絵を見ると仏教である一編が神社を訪ねるのは何の不思議もないはずなのですが、一神教の外国人の目になって見てみるとこれはとても不思議な感じなのです。
たとえばこの絵巻にはこんなストーリーが描かれています。ある神官の息子の家を訪ねその奥さんを出家させてしまうのです。絵には断髪する奥さんの姿がかかれています。その後それを知った亭主が怒って馬で一編を追跡する場面があります。そして市場でこの亭主が刀を抜いて一編に切りかかる場面になりますが一編が【あなたは神主の息子だろう】と看破すると、どうしてそれが解ったのかとすっかり感心して亭主もまた出家してしまうのです。、
西欧的宗教概念から見るとまったく違う神様を信じている人を別の宗教に引きずり込むというこのストーリーは結構過激なもののように感じられます。
同じように仏教である一編が神社を多く尋ねるのにも何か意味があったかのように感じてしまうのですが、たぶんこれは一神教的思考に慣らされて来た僕の思い過ごしに過ぎないのでしょう。
(遊行寺の一遍さんの像は鎌倉の光触寺にあるものと表情が違い、ずいぶんと穏やかに見えます?)
もう一つ不思議に思ったのは最初に一編さんのことを知ったのは鎌倉の光蝕寺というお寺にある一編の象で、このお寺も一遍さんゆかりのお寺だと思っていたのですが、この聖絵には鎌倉に入ろうとした一遍さんたち一行を武士たちが押しとどめている場面があるのです。
その後鎌倉に入れなかった彼らが鎌倉の外で支持する人々歓待してもらい、鵠沼海岸の付近で念仏踊りを行っている場面も出てきます。(舞台の上で沢山の人が踊っている場面なのですが、ここでも一編さんはどこにいるか良くわかりません!)
(下の写真は光触寺の看板です)
ということは一遍さんは鎌倉に入らなかったはずなのになぜ鎌倉にお寺があるのでしょう?という単純な疑問でした。調べてみるともともと真言宗のお寺だったものを作阿上人が一編に帰依して時宗のお寺として開山したものだそうですが、この聖絵にはその場面は出てこず、また作阿上人がどのように一編とかかわりあっていたのかも解りませんでした。
さて本日はやっと遊行寺まで出かけてこの絵の別の部分を見てきたのですが、見るたびに思うのはやっぱりその不思議さです。
10年もの長い年月をかけて出来たこの絵巻は、実際には相当の人数が作成に関わったにも関わらず、その作者たちの名前が不明であること、そしてものすごく費用がかかったはずなのにその負担者も良くわからないと言うことです。
たとえばヨーロッパの絵画ではその作者や工房はほとんど特定できるようで、これほどの大がかりな作品がどこの誰が作らせたのか?誰が何人で書いたのかが解らない?というケースは無いように思われます(これもシロートの意見なので鵜呑みにしないように!)
そして何度も書くようですが、この絵画の目的がなんだったのか?という不思議です。
これだけ主人公以外のデイテイルがあえて細かく書き入れられているという意図を推測してみるならば、そこには一編上人の思想の根底にあるものが見え隠れしているのかもしれません。
もしそれが路上に積もる雪も、身分の低い非人や病人、さらに女性などを含めた一井の人々も、馬の見張りをする猿も、見えないほど小さく頭をのぞかせている筍も、そんな世の中にあるものはすべては等しくあるということを表現しているのだとしたら、それは現代に在ってもきわめて重要な価値を持っていると言えるのではないでしょうか?
なんて・・まったく知識のない僕が初めてみた絵巻に興奮して勝手なごたくを並べてしまいました(反省!)が、BTさんやCさんに聞かなかったらこの絵巻なんかまったく見ることもなかったでしょうし、こんな色々な事を考える機会など無かったことと思います。つくづくこういうまわりの人たちの知識のありがたさが解ろうと言うものです。(それにしてもみなさん良く知っています!)僕が知らないだけで世の中にはまだまだ面白いもんが沢山あるもんだということがまた解ってしまいました。