県立音楽堂でクイケン・ラ・プテイット・バンドの【マタイ受難曲】を聴いてきました。神に感謝! |
というわけで前日のノイマイヤーとルグランの華やかで大音量で大迫力のバレエとは打って変って、その翌日に対象的ともいえる古楽オーストラを聴きに行ったのですからそのへだたりは大きいものです。
しかしイタリア料理のコースを食べた翌日にシンプルな日本料理を食べても美味しいことには変わりはなく、旨いものはうまいのですからそれも良しとすることにしましょう。
今回たまたま行きたい演目が続いてしまいました。そう頻繁にコンサートに行ける身分ではない僕にとっては、もっと期間が空いていればそれを待つ楽しみも増えるものにと思ってもこればっかりはしょうがありません。
先にチケットを購入したのはマタイのほうで半年近く前に買ったので前から4列目という良い席を手にいれることが出来たのですが、これは後述するようにこの演奏には実にぴったりの席だったのです。
マタイ受難曲といえば泣く子も黙る名曲です。好きな人には死ぬほど好きになるほど魅力が沢山詰まった曲です。かの音楽好き、オーデイオ好きの作家がこの曲を聞いて偉く感動しまったく信仰の無い自分でもこの曲を聞いていると神の存在が信じられてくると言ったそうです。もっともその後に、それほどの曲なのになぜキリスト教の信者があまり聞かないのか?とも言ったそうですが確かにそれがもっともな事に思われます。
さて今回の公演では珍しく舞台の両翼に日本語字幕が出る設定となっていました。
この曲をレコードやCDで聞く時にはほとんど対訳歌詞を見ることはないのですが今回はいやおうなしにその歌詞がめに入ってしまいます。ふだん何気なく音楽として聞いたいた曲がいきなり意味を持ったメッセージとして迫ってくるのです。これはある意味新鮮な体験でした。
たとえばミサ曲だとお祈りの文句はきまっているので、どれも同じ歌詞となります。
あまり深い意味を考えることなく、ここは神をたたえているところだなとかここは罪を悔いているところだな程度で軽く聞き流すことが出来るのですが、マタイはなんといってもキリストの受難場面を描いた悲壮な歌詞です。そんなわけには行きません、なんせ受難の様子が手に取るように語られているのですから!
その歌詞を最初から最後まで目を通しながらこの曲を聴くと、いかにキリスト教の教理をうまく伝えているかが良くわかります。
キリストの受難の場面をこと細かくたどっていくのですが、特徴はそれぞれの場面が描写された後に、必ずその意義となすべき事が歌われることです。(反省ですね!)
キリスト教の教義では神は父と子と聖霊によるものです。父なる神とその子イエスが同時に存在していることがキリスト教の肝?です。
しかし神なる父が人間を救うために地上に遣わしたイエスが人間を救うために受難に合わなければならないのですからなんという矛盾でしょう。
神としてのイエスが人間としての苦しみを受けなくてはならないのは、ひとえに人間の罪を救うためなのです!
神であるイエスが同時に人間としての苦しみを味わうが故に人間を救う事が出来るのです。ここに神の計り知れないほどの愛が存在するというわけです。
というわけでイエスは人間の罪を救うため、すなわち人間の罪がイエスを苦しめているのだということが繰り返し語られます。
なんといってもその事が神のおおいなる愛を証明することになるのですから当然です。それはまた悲痛なまでの人間の叫びなのです。
そして最後まで聞いてみるとこの曲が実にわかり易く上手にキリスト教の教えを伝えているかということが解るのです。
こんな長くて悲痛な物語とそれに伴う反省?を延えんと聞かされるのですが、それを飽きることの無い音楽に仕立て上げるのですからバッハはすごいです。
受難の場面がまず語られると、その後アリアかコラールが歌われます。
その内容は【見るがいいその悲惨なお姿を、それはすべてあなたたちの罪が招いたものなのだ!】と言うような反省の歌がほとんどです。
これだけ【お前のせいだ、お前のせいだ!罪を悔いなさい!】と言わるとそれがいかにキリスト教の教えの要だとはいえ、罪びとたる我々(特に僕はですが!)そのゲルマン人的しつこさに少々辟易することは確かです。
これほど素晴らしいコマーシャルソングがこんな昔に存在していたとは驚きです! 数あるキリスト教のコマーシャルソング?の中でもこれは一番でしょう!
それにしては件の作家が言ったように、なぜ信者がこの曲をあまり聞かないのか、なぜ教会でやらないのかという疑問は今でも大きなもののように感じます。
その理由の一つに演奏の難しさというのがあるでしょうが、それはなんとか乗り切ることが出来そうです。それよりももっと大事な問題だと僕が想像しているのがあまりに曲が美しいと言うことです。
あまりの美しさに曲を聴くことのほうに没頭して内容がおろそかになる恐れが十分にあるからです。その証拠に今回の演奏でじゃまになったのが字幕だったという気がした僕のような不埒な輩が沢山出てきたら困るからでしょう?
それにしても美しい曲です。冒頭のコラールの旋律が聞こえてきただけでなんだか体中がジーンとしてしまうではないですか。
ところがフルート(今回はトラベルソと言われる木製の古楽器が使われます)の伴奏による女性のアリアの場面になりトラベルソが前奏を吹き始めるとその頼りない音色に、煌びやかな金属製のフルートの音色に慣れた耳は思わずえっ!と驚いてしまいます。
同じことは演奏全体の音量にも言えます。クイケンがわざわざ前に出てきて演奏したきわめて美しい装飾がほどこされたビオラダガンバの音など思わず前に身を乗り出したくなるほど繊細な音です。
まさにこれはひっそりとした教会で演奏すべき音楽なのです。
クイケンの音作り(というより時代に忠実な音作りといったほうが良いかもしれません)は歌のほうにも表れています。
大人数のコーラス隊を従えた演奏に較べると、コーラスパートまでソリストが受け持つという最低限の人数なので、もちろん迫力という点では大編成にはかなわないのですが
コーラル部分だけに限ってみれば、この曲にとってけして不足は無いように感じます。ところがちょと物足りなく感じてしまうのがアリアの部分でした。
これはあえてオペラ的なドラマチックな歌い方を排したバロック的な発声や唱法のためなのですが、他の演奏を聴きなれた耳には物足りなく感じてしまいます。
またオリジナル楽器の響きがあまりにも小さいので本来はホールでなく響きの大きい教会で聞くべき音楽だったということがわかる演奏でもありました。
特にそれを感じたのは一番有名なヴァイオリンの伴奏によるペテロが3回嘘をついてしまい泣き崩れる場面の後に歌われる憐れみのアリアです。
このアリアは様々な人の演奏で聞き飽きるほど聞いているのでその印象があまりにも強いためかもしれません。
せめてここだけはすすり泣くようなヴァイオリンの音色が悲しみを盛り立ててほしいところですが、クイケンの独奏によるバイオリンはあくまではかないまでに静かです。
歌のほうも感情に走ることなくひっそりとうたわれます。確かに宗教曲としてはこれが一番正しい表現方法のように感じられることもたしかですが、一方では聴きなれたこの歌だけにちょっとだけ物足りなく感じてしまったのです。
今回の演奏と同じように最低限の人数でこの曲が演奏されたものに米国の研究家ポール・マクリーシュによるものがあります。
歌っている人数は同じようなものですがその印象は随分と違います。というのは演奏される速度が対照的と言ってよいほど違うからです。
どちらが正しい速度なのか僕にはわかりませんが、マクリューシュの演奏は異様なほど早く感じられ、今回のクイケンの演奏はその逆に感じられます。
3時に始まった演奏会が途中20分の休憩をはさんでいたとはいえ6時半近くまでかかったのですからたぶん相当に遅いはずです?
当然早ければは軽快な感じで、遅いと重厚に感じられるはずです。それにしては今回の演奏はリヒターのように重厚さを感じると言うよりは静謐さのほうを強く感じてしまいました。
この曲はキリスト受難の様子を噛んで含むように説明し、さらになぜそうなったか(もちろん人間が悪いんです!)という理由も実に解りやすく音楽にしています。
そしてこの演奏はそれに相応しく、すこしの派手さも飾ることも無くひたすら誠実で静謐さだけが存在していたように感じられました。
よーく考えてみれば豪華で華美になったカトリックに反発して質素や清貧を旗印にして生まれたプロテスタントの音楽が豪華で甘美なわけがありません。その意味でもこれは実にその時代に忠実な学術的にも正しい演奏に違いないのです。
とはいえ正しいものばかりが好きでない僕にとってはここまで禁欲的でなくとも、もう少し耽美的に人間的に?やってくれても良いのではという気もしたのです。
これはあまりにも字幕にとらわれ過ぎてしまった僕だけの感想かもしれませんが・・・。
(マタイの事を書きながらも写真はすべて先週の東慶寺のものとなってしまいました!)
モノクロのお写真、梅の季節、仏像の佇まいが良い具合ですね。
私もモノクロで撮ってみようかと思います。
もう梅は散ってるかもですが・・・