ミッシェル・ルグラン、ビル・エバンス、マイルス・デイヴィス |
ルグランが最初にビル・エバンスと出会ったのは【ルグラン ジャズ】の録音の時でした。その時ルグランは26歳。
若きルグランは自分で編曲,指揮をしてオリジナリテイの高いアルバムを作ったのですがこの時のピアニストが当時マイルス五重奏団にいたビル・エバンスでした。
このアルバムを聞く限りビル・エバンスらしさは少しも感じられませんが?それはルグランが細部にわたって編曲し作りだした彼の音楽だったのですからある意味当たり前かもしれません。
当時のルグランは見るからに生意気そうな若者ですが、この時エバンスも28歳、短い髪とネクタイでその雰囲気はまるで大学生のようだったそうです。
それから何十年も二人が合うことは無かったのですが、ビル・エバンスからの要望によってルグランが作った曲の楽譜は定期的にビルのもとに送られていました。
その後エバンスが演奏したルグラン作曲のノエルのテーマ【映画 真夜中の向こう側のテーマ】を聞いて、ルグランは彼が演奏するとこんなに高貴な音楽になるのかと驚いたそうです。
ルグランジャズを録音してから22年後の1980年、ビル・エバンスのマネージャーから【ビルはあなたにピアノとオーケストラのコンチェルト風の曲を書いてほしいと言っています】
との連絡を受けます。ルグランはとても喜びすぐにスケジュールを都合して2か月後にニューヨークに旅立ちます。
到着したその日にビルがライブ演奏をしていたJAZZクラブに飛び込み彼の演奏を聞いて至福の1時間を過ごした後、2階のレストランで一緒に食事をすることになります。
その時ビルはコルチゾンの副作用で腫れた指を見せて、【これを見てくれ、もうそんなに難しい曲は弾けない。シンプルな楽譜にしてくれ】と言ったのです。
打ち合わせを終えた二人は3番街の歩道で夜中の1時ころ別れたのですが、その後ビルの様態が急に悪くなり病院に入院したと聞かされます。そしてその5日後ビルは亡くなりました。
ルグランはビルが最後に鍵盤に向かった最後の演奏を聴いた一人となったのです。
その数か月後ワーナーから彼の遺作というアルバムが発売されます。それが僕の一番好きなビル・エバンスのアルバムでもあるルグランのロシュフォールの恋人たちからの曲をタイトルにした【YOU MUST BELIVE IN SPRING】だったのです。
このアルバムについては2013年12月11日の僕のブログ【近頃よく聞くアルバム】と2014年1月24日の【ミッシェル・ルグランでつながった・・】に2度も書いていたことを思い出しました。
マイルス・デイヴィスとはルグラン・ジャズの32年後に再び一緒に仕事をすることになります。ルグランジャズの録音でルグランの才能を認めたマイルスの頭にはルグランの印象が残っていたのでしょう。
1990年2月突然オーストリアの映画製作者から【マイルスがあなたとなら一緒にやっても言いといっている!】と電話があったと思ったらその翌日、マイルス本人から電話がありました。
【フランス野郎、さっさとロスアンゼルスにやってきやがれ!】どうしてこんな魅力的な誘いを断ることが出来るでしょう、ルグランはスケジュールを無理やり調整するとすぐ飛行機に飛び乗ったのでした。
この仕事は映画【デインゴ】の音楽を作ることで、依頼してきた監督は3週間後に迫る撮影開始までに音楽を間に合わせたかったのです。
ところがプライベートビーチと厩舎と7台のフェラーリがあるマイルスのマリブにある豪華な邸宅につくと、そこでは高価なワインを飲み、歓談し、飽きたら海で泳ぐという生活が3日も続きマイルスからいっこうに仕事の話題が出てこないのです。
4日目にたまらずルグランが製作会社から渡されたスケジュール表を見せると、やっとマイルスはトランペットを取り出しますが気のないフレーズをいくつか吹いたすえに、もうこの仕事は止めだと言い出しました。そこでルグランが提案したのがまず自分がオーケストラと録音を済ませ、最後にそれにマイルスがトランペットを加えるという方法でした。
後にルグランはこの事を、もともと自分からこの方法を提案させたかったマイルスの独特の作戦だったかも知れないと言っています。
ルグランはそれからまる3日間ホテルにこもりっきりで脚本と首っぴきで作曲をします。ルグランが考えたのはギル・エバンス時代の抒情的なマイルスと現代のマイルスを融合させたいと言うことでした。
3日間ですべての準備が完了し、後はマイルスの登場を待つばかりとなった時マイルスから電話がありました。
【何色がいい?】なんのことかわからずルグランはとっさにグリーンと答えたのですが、実はそれは彼が乗ってやって来たフェラーリの色だったのです!(なんといっても7色のフェラーリを揃えていたのですから!)
やってきたマイルスは5日前のやる気のない彼とは別人のように精力的に録音を開始し、必要なテイクにすべてこたえてくれたばかりか、【そこはもっと泣いてほしい】というようなルグランの細かい注文にも嫌がることなく見事に応じてくれ、この録音により二人の間には親密な友情が生まれたのでした。
【デインゴはけっきょく偉大な映画ではなかったかもしれない。でもそれはそれは私たち兄弟の再開の口実になっただけで充分だった】
そして翌年の91年友人の映画監督フランソワ・レジャンパックがマイルスとのインアタビューを切望したためその労を取り、嫌がっていたマイルスになんとか頼み込んで了承をとります。
マイルスがパリでレジオンドヌール勲章を授与される機会に30分ほどのインタビューを行ったのです。その時マイルスは真摯にその心情を語ったそうです。
ところが不思議なことに理由はわかりませんが戻ってそのビデオテープを再現してみると何も録画されていなかったのです。
そしてその2か月後マイルスは亡くなります。そのさらに2か月後に映画デインゴが公開されます。
ルグランは自分の初めてのレコードでマイルスと出会い、そしてデインゴはマイルスに取って最後のアルバムだったのです。
ルグランの序章とマイルスの終章、なぜかこの二つの場面をお互いが共有することになったのです。
ルグランが自分の作品をJAZZ的に解釈し演奏したなかで一番好きな2曲というのが、マイルス・デイヴィスの【ワンス・アポン・ア・サマータイム】とビル・エバンスの【ユーマスト・ビリーブイン スプリング】だそうです。
彼はそれについてこう言っています。
【この選択を単なる自己満足とは思わないでほしい、なぜなら私はこの二つの録音に参加していないのだから、これは私の音楽ではありますが同時に神と結ばれた二人の天才によってそれを超越したものになったのです】。
これを聞いてこの二人の演奏によるこの2曲を聞かないわけにはいきませんよね!
(先週の日曜日あたりから桜がどんどん開き始めて、写真がどんどん溜まってしまいました。今回は近所の風景とこちらはまだ咲き始めの妙本寺の海棠です。)
続編、楽しく読ませていただきました!!
これだけ詳しい内容を調べ上げる、ご苦労に敬意を表します。 又次を期待し待ってます。