子供が主役の傑作映画【風の中の子供】【奇跡】【アニキ ボボ】で大きく違うこと違わないこと。 |
(今回の写真は10月の末のお天気の良い日の鎌倉から七里ヶ浜を自転車で走った時のものです。10月末とはいえまるで夏のような陽ざしの一日でした。)
清水宏が1937年に製作した【風の中の子供】は児童文学者として有名な坪田譲治の原作を映画化したものですが、実は僕は小学生のころこの原作を読んだ記憶があるのです。現実的で暗いお話なので特に好きだった覚えはないのですが、この小説の中の一シーンをいまだに覚えているのが妙です。主人公である善太と三平という兄弟の父親が何かの罪を着せられて警察に連れていかれる少し前の一場面です。それは父親の視点から書かれていたように思いますが、疲れて寝そべっている父親の上に二人の兄弟が乗って遊んでいます。父親はその子供たちの重みにしみじみと幸せを感じ、一方では去っていかねばならぬ悲しい気持ちになるのですが、その父親の気持ちをありありと覚えているのです。なぜ小学生の僕がそんな父親の気持ちを感じ、しかもそれをいまだに憶えているのか実に不思議なことではあります。
清水宏の子供好きは有名ですが、この映画も二人の兄弟が実に生き生きと描かれています。父親が冤罪で刑務所に行ってしまい、経済的な理由から弟の三平だけが田舎の家に預けられます。三平がこの田舎で高い木に登ったり、たらいを船にして川を流されたり、サーカスについていって保護されたりとやんちゃぶりを発揮するのですが、そのたびに助けに行く田舎のおじさんが実に良い味を出しています。とはいえ三平がやんちゃなのもお母さんやお兄さんと離れて暮らす寂しさからなのです。最後にはお父さんの冤罪もとけて家族そろって暮らせることになりめでたしめでたしなのですが、そのように子供を主役とした映画とはいえそのテーマは家族なのです。登場人物の共通の思いは皆が一緒に暮らすことで、この時代には今ではごく当たり前のその事が様々な事情で難しかったのです。家族が一緒にいられない理由はそのころは家族の中ではなく外側にあったのです。
昔の子供が主役の日本映画では子供はあくまで家族の中の子供として描かれているように見えます。たとえば僕の好きな映画に小津安二郎の【生まれてはみたけれど】や【おはよう】があります。この二作ははとても素晴らしい映画なのですが、小津が描く子供はあくまで大人の世界を描くための手段のようにも見えます。清水宏の場合は子供の存在をもっと身近に生き生きと描いていることなのでしょうが、それでもその時代が持っていた家族という概念の重さからは逃げることはできなかったように見えます。
さて2011年に作られた是枝裕和監督の【奇跡】も二人の兄弟を主人公にした映画です。風の中の子供から74年!を経た現在では家族が一緒に暮らせない理由は社会のほうではなく家族の中にあります。音楽に夢中で生活を顧みない父親、そんな父親に愛想を尽かした母親、この映画でも二人の兄弟はそれぞれの親に引き取られて別々に暮らしています。そしてこの兄弟のうち特にお兄ちゃんの思いは家族一緒に暮らしたいということなのです。この日本映画の伝統的ともいえる家族の大切さというテーマは、実はラストでまんまとひっくり返されることになります。
話は飛びますがこの是枝監督はカンヌ映画祭で賞を取ったりして現在の日本映画会ではもっとも注目されている一人だそうです。実はこの映画の前に【海街Daiary】という映画を見たのですが昔の日本映画へのオマージュという雰囲気にはあふれていましたが、原作が少女マンガのためかどうか?どうもすべての表現が安直で安物のドラマのように感じられてしまいました。ところが僕が昔愛読していた小林信彦さんの本を読んでみて驚きました。彼はこの映画を絶賛しているのです。なかでも少女が自転車で桜の花の下を駆け抜けるシーンなどべた褒めしていましたが、僕にはどうもありふれたシーンのようにしか見えません。小林信彦さんといえば当時あまり評価されていなかった喜劇の重要性をいち早く指摘したりと大層な目利きだったはずなのに、こんなに大甘なのはどうしたことなのでしょう。本人も書いているように主役の一人広瀬すずの大ファンだそうですから贔屓目もあったのかもしれません。このように評価というものはほんとに人さまざまなのだなというのが改めて解ったのでした。
さてこの【奇跡】はそれに比べるとずいぶんと面白く見ることが出来ました。(たんなる好みの問題なのでしょう!)鹿児島から福岡に向かう新幹線「つばめ」と福岡から鹿児島に向かう「さくら」が初めてすれ違ったときに願い事が叶うという、これが題名の奇跡なのです。なんだかおもしろい事考えるなと思ったらこの映画JRの企画によるものというのですから驚きです。この兄弟と友達数名はそれぞれの願いを持って奇跡が起こると言うその場所に向かいます。
しかしその瞬間家族が一緒に暮らすことを願うつもりだった兄弟はその願いを口にすることは無かったのです。それは日本映画が家族の大切さという呪縛から逃れた初めての瞬間でした。兄弟は家族のことではなくより広い世界の事を思ったのです。それは子供から大人への旅立ちだちであり、また日本の社会が家族という単位から個人という単位を重要視するようになったという時代の変化でした。いつの時代にも優れた監督はすぐれた嗅覚でその時代を描き出すのです。
とここまで書いて子供の存在を親や家庭の枠組みの中でしか描くことの出来なかった日本映画とあまりにも異質なオリヴェイラ監督の【アニキ・ボボ】をどうとらええていいのか混乱してしまいました。家族の大切さを真っ向から素直に描くのは今でもアメリカ映画の伝統ですが、それと正反対にここまで子供が子供として独立した存在感を持っている映画をほかには知りません。しかも1942年という昔に出来た映画にもかかわらず、この映画の子供たちはすでに独立した個人のように行動するのです。
小学校低学年くらいの子供が夜中の2時に家を抜けだし好意のある女の子の家へプレゼントを持っていくという行動力にはひれふすばかりです。なんといっても僕なんか中学生くらいになっても女の子に好意を示す手段は年賀状を出すことくらいで、真剣に返事を待っているだけだったのですからその差は大きいと言えます。それにしてもこの映画の子供たちの独立した姿はすごすぎます。これはもしかすると時代とか地域とか言うものではなくオリヴェイラ監督という独特の才能が生んだ特別の世界だと考えるのが一番正しいのかもしれません。天才は時代を超越するというわけです!
これらの子供を主役とした優れた映画の中で共通しているのは、【理屈はともかくとして子供は元気だ!】ということです。優れた子供映画には子供だけが持つエネルギーというものがきちんと描かれています。それが一番顕著に現れるのが走っているシーンです。これらの映画の中では子供たちはいつも走っています。(あの静かな小津の映画の中でさえ子供は走っているのです!)走ることになにか特別な理由でもあるかのようにいつも走らないではいられないのです。映画を見ていてもそこにはエネルギーを感じてしまいます。僕が子供が主役の映画が好きなのはそこいらへんに理由があるのかもしれません。外に出ただけで走りたくなってしまうようなむずむずした感覚、そんなものがいつか羨ましくなる日が来るとはその時には考えもしないのですけど!
そして子供たちが本来持っている素直さを引き出すためには優しい大人たちの存在もまた不可欠です。走ることと同じように優れた子供映画には何でも受け入れることの出来る魅力的な優しい大人が登場します。それをまた演技の上手い俳優が演じているというのも大きなポイントです。
こういった映画を見ていると子供が素直でいられるのも優しい大人のおかげであるという逆説的な事実、すなわち優しい社会が素直な子供を作るという事がわかるのです。子供の世界と大人の世界は別々なようでいて実はすごく重なっているんですね。そこで改めて今の世の中を振り返ってみるとなんだか難しい気分にさせられます。なによりも自分がそんな優しい大人でない事に気づいて、まったくしょうがねーなと思うのでした。