大規模な展覧会も良いけれどちょっとした小さい展覧会もなかなかに面白い。町田版画美術館と平塚美術館。 |
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2024年 02月 15日
暇に任せて美術館にはよく行きます。美術館は景色の良い場所のように新しい世界を見せてくれるからです。 そんな中で車で行きやすい美術館というのはありがたい存在です。 車で行きやすい美術館というのは行くまでの道も駐車場も空いていて、駐車料金も無料だったり割安だったりするところです。 (下は町田版画美術館ロビー) その筆頭は町田版画美術館で今時なんと無料駐車場があります。 ここの特別展は僕にはあまりに凝りすぎというか専門的すぎる気がしますが、そのためかどうかいつも人も少なく実にゆっくりと見られるのが嬉しいところ。 続いて平塚美術館です。ここの駐車場も1時間半無料で追加料金も割安、館内もいつも空いているのが嬉しいところ。 企画展は町田とは正反対でごくわかりやすく親みやすい企画が多いのも嬉しいところです。 もう一つ素晴らしいのはこの二つの美術館は入館料が格安なのです。 (同じ町田市にあるショッピングモールの夕暮れ) 最近美術展の値段がどんどんと高くなっています。東博の特別展などはもはや2000円を超えています。 美術館というのは本来一般庶民の生活に寄り添っているものでしょう。この二つの美術館はまさにそういう美術館だという意味で実に貴重です。 ところが日本では市や町の美術館はそうなのに、それが横浜市や東京都などの大都市の運営になるとぐっと料金が高くなり、さらに国になるとさらに高くなるというおかしな国なのです。 神奈川県だって日本で一番最初にできた志の高かった美術館をあっさり手放してしまいました。(幸い坂倉準三の建物だけは残っていますが) (下は板倉純増の椅子) 国立オペラハウスがオフイスビルの中にあり、今度は国立劇場を改築して上がホテルにするというのですから何をかいわんやです。 文化とか芸術というものに対する国の考え方がよくわかります 一体世界のどこの国に国立劇場がオフイスビルの中やホテルの中にあるというのでしょうか。もっとも国民の方も誰もそれを不思議に思わないようですが? さて今回訪れた町田版画美術館は(黒崎 彰 50年の軌跡)と(新収蔵作品展)というものでした。この日はなんと入場料無料でした! 美術館に行っていつも驚くのは(なんと知らない作家が多いことか!)ということです。 もともと美術関係の知識など皆無に等しいのでそれも当然なのですが、それにしても美術館に行っても知らない名前が次々と出てくるのには頭がついていけません。 それでもこうやって美術館に展示されるような作家の作品を見ると(何かしらすごいものだな)という感動を覚えてしまいます。 もちろん好き嫌いは別としてですけど。 (同じく町田版画美術館) それは初めて行った見知らぬ場所からの風景を眺めることに似ているかもしれません。見ている僕の記憶の中に風のようにそっと忍び込んでくるのです。 一人の作家を年代別に見られるというのはとても面白いことです。 人によってはほとんど変わらない人もいますが、変わらなくても晩年になると穏やかになる人が多い気がします。ブラームスの後期のピアノ曲なども同じように感じます。 もちろんものすごく変わる作家もいます。黒崎彰は変化の大きな作家でした。 最初はいかにもその時代に似合う抽象画でした。ビビッドな色彩とくっきりとした形特徴的です。 僕にはこのころの作品にはアボリジニとアメリカ先住民とかのような、はるか昔の雰囲気が感じられるような気がします。 この時代以降の作品は紙に特徴があります。 表面が毛羽立った韓国の紙を使った作品では滲みが独特の雰囲気を出していることが作品に暖かみを感じさせています。 下の作品は同じく韓国の紙を使っているのでその質感が鋭い形を和らげています。 これは浮世絵によく描かれた瀬田の唐橋を描いた(近江八景・瀬田の夕照)です。 まるで花火のように見える夕照が斬新で下に描かれている瀬田の唐橋がなければまるで抽象画です。 下の絵(部分)は(万葉、大和)雪の佐保・光明皇后という作品です。 それにしてもまるで日本画のような静かな雰囲気は若いころの作品と比べると大きな変化です。降り積もっていく雪の質感がグラデーションで美しく表現されています。 晩年になると世の中の足かせから自由になるのためか、ものすごく明るく開放的になる作家は結構多いのです。 僕はそういう晩年の絵がとても好きです。なんだかこの人はとても幸せな生涯を送ることができたんだな、とどこかほっとするのです。 例えば中川一政美術館にも時々行くのですが、彼が80歳を超えてからの絵は実に溌剌として美しく、見ると元気をもらえます。 熊谷守一だって若かったころの暗い絵が晩年は見事にシンプルになり穏やかで明るさを感じさせるようになるし、鈴木信太朗の80を過ぎてからの作品もまるで子供の絵のように明るい光に満ちています。 今回の黒崎彰の作品も晩年の作品の方に魅力を感じてしまいます。 そしてこうやって一人の作家の50年の軌跡を見ると今まで名前も知らなかった画家がとても身近に感じられるのでした。 (続きます) 今回は黒崎輝 #
by omoshiro-zukin
| 2024-02-15 08:50
| おもしろ美術
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2024年 02月 10日
どこまで元気なのか、90歳になってからニューアルバムを二枚も出すなんて(それも歌手として!)なんと驚異的なことでしょう。 90歳になってから(I Don't Know A Thing About Love:)を出したばかりだというのに早くも二枚目とは驚きです。 しかも正確に言うならば『Long Story Short: Willie Nelson 90: Live At The Hollywood Bowl』というハリウッドボールで行われた90歳の記念コンサートのライブアルバムもCD二枚にブルーレイ画像付きて発売されているのですからすごい。 この記念ライブのゲストが豪華です。 キース・リチャーズ、ニール・ヤング、スティーヴン・スティルス、トム・ジョーンズ、クリス・クリストファーソン、ベック、シェリル・クロウ、ノラ・ジョーンズ、エミルー・ハリス、ジャック・ジョンソンなどなどで、この誕生記念のコンサートは二日間に渡って行われたそうです。 そのうちこのCDも聞いて見なくてはと思っているところです。 (CD二枚とブルーレイ一枚で9290円もします!借り物写真です) ついこの間まで90歳近くまで活躍していた歌手にトニー・ベネットがいます。彼の90歳の誕生日記念のコンサートもすごいゲストでした。 アンドレア・ボチェッリ、マイケル・ブーブレ、アレサ・フランクリン、レディ・ガガ、エルトン・ジョン、ダイアナ・クラール、k.d.ラング、ルーファス・ウェインライト、スティーヴィー・ワンダーなどなどです。残念ながらこの記念ライブがトニーベネットの最後の歌声となってしまいました。 このアルバムは聞きましたが、それはそれはゴージャスで聞きごたえがありました。 どちらのゲストも単独でコンサート開けるようなビッグ ネームばかりでアメリカの音楽業界の力がわかります。 かように彼の国のベテラン歌手たちは元気で活躍していますが、昔に比べると随分と年寄りが元気で活躍しているのは世界的傾向でしょう。 (息子のマイカ・ネルソンがジャケットを描いた90歳になって最初のアルバム「僕は恋についてなんて何も知らないよ!」この歳にして洒落たタイトル) そんな中で90歳を超えて立て続けにアルバムを出し続けているウイリー・ネルソンはまさに驚異の人です。 しかも声を聞いているととても90歳とは思えないのですから超人としか思えません。 ウイリーが歌う曲のジャンルは実にバラエティに富んでいいます。 ジャズトランペットのウイントン・マリサリスと共演したアルバムやバックにジャズ界のベテラン、ジョー・サンプル(ピアノ)、クリスチャン・マクブライト(Bass)、ルイス・ナッシュ(Drums)を起用したアルバムさえあるのです。 昔からウイリーはスタンダードの名曲を歌い続けています。中でもアルバム(スターダスト)は今でもよく聞かれている名盤です。 最近ではフランク・シナトラのレパートリーを集めたアルバムを作ったり、まさにカントリーという分野からは遠く離れています。 僕は彼の音楽はもはや(ウイリー・ネルソン・ミュージック)という独自の音楽ジャンルなのでは?と思っているほどです。 スタンダードとして残っている曲は本当に良い歌が多くウイリーだけでなく実にたくさんの歌手が歌っています。 (下はレオンラッセルとの共演アルバム、様々な分野の人とアルバムを作っています) リンダがカントリー系というと首をかしげる人がいるかも知れませんが、なんせあのカントリーロック界の有名バンド(イーグルス)はそもそも彼女のバックバンドだったのです。 彼女がスタンダードの名曲を歌ったこのアルバムが素晴らしいのは、曲の良さはもちろんですがアレンジと伴奏を請け負った(ネルソン・リドル)の功績が大きいと思っています。 僕はこのアルバムはネルソン・リドルの伴奏の方に思わず耳を傾けてしまいます。 他にスタンダードを歌っている歌手を思いつくままに上げて見てもジェームス・テイラー、ロッド・スチャート、カーリー・サイモン、リター・クーリジ、ポール・マッカトニー(こちらはかなりひねっていて有名なスタンダード曲は一曲も入っていません)などなどたくさんいます。 それぞれが個性的なのでどちらかというとまるで彼らの自前の曲のように聞こえてしまうところが特徴です。 特にウイリーなどジャズのスタンダードもカントリーも全く同じ歌い方なのです。 それでも僕にとっては淡々と歌うウイリーの歌うスタンダードは曲の良さをしみじと味わえるので大好きなのです。 さて前作はカントリー界の作曲家として有名なハーロン・ハワードの曲を歌ったいかにも正統派カントリーの香りたっぷりのアルバムでした。 スタンダード曲も歌い尽くしたようで、ここ数枚はお得意のカントリー系が続いていたのでそろそろネタ切れかなと思っていたのですがさにあらず。 90歳にして二枚目のアルバムタイトルはなんと(ブルーグラス)でした。 もう何度も書いているのでブルーグラスとカントリーの違いをここで述べるのはやめておきますが、この二者は似ているようでかなり違います。 不思議なことにカントリー界の人がブルーグラススタイルで演奏することは稀です。同様にその逆も同じなのです。 それでは何故今頃になってカントリー界の大御所が、ブルーグラス・ミュージックを選んだのでしょう。しかもタイトルまで(ブルーグラス)なのです。 カントリーミュージックとの違いを簡単にあげるならブルーグラスはアコースティック楽器しか使わないということかも知れません。 そこではたと思い当たりました。これはウイリーネルソンにとって初めての全曲アン・プラグドのアルバムではないか?ということでした。 ご存知のようにエリック・クラプトンがアンプラグド・アルバムを出して大成功してからアンプラグドアルバムは大盛況でした。アンプラグドはウイリーに残された最後の分野だったのです?? というのは僕の勝手な推測だったのですが、聞いてみるとこれが単なるブルーグラスの名曲を集めたものでは無かったのです。 知ってるブルーグラスの曲があるかなと期待していたら一曲もありません。全曲ウイリーが過去に歌った自分の曲ばかりでした。 なるほどこれはやはりブルーグラスのアルバムというより彼の歌のアンプラグド版だったのです? バックは見事なほどに奇をてらったところのないオーセンティックな演奏です。今時珍しいほどの古典的ブルーグラスサウンドが実に耳に心地よく響きます。 ウイリーのバックを務めるだけあってブルーグラス定番の楽器たちが実に確かな腕前で演奏されています。 このアルバムの一番の特徴は、どのアルバムにも必ず入っているウイリーのナイロン弦ギターが入っていないことです。 自分の演奏を封印してまで忠実に正統派のブルーグラスサウンドを再現しているわけで、それは目一杯ブルーグラスミュージックに敬意を表しているとも言えるのです。 ということはこのアルバムのコンセプトがアンプラグドという僕の推測は的外れだったのかも知れません。 ともあれこれは聞いていて理屈抜きに気持ちの良いアルバムでした。 このアルバムの感想を知人の日本ブルーグラス界の重鎮と言われる人に聞いて見たところ意外な返事でした! それはなんと(もうついていけない!)というのです。 一体それはどういう意味か問いただしてみるとアメリカではもはやブルーグラスは音楽学校で教えるものになっていて、このアルバムでバックをやっている連中はどうやらその音楽学校の出身の秀才の面々らしいのです。 音大できちんと学んだ連中とは音楽についての考え方も異なり、とてもついていけないのだそうです?まさに時代は変わっていくのです。 そういえばジャズの世界でもバークリーとかジュリアードなど音楽学校出身のプレーヤーが増えています。 アパラチア山脈の山奥からはじまって、ごく一握りの愛好家のものだった素朴な音楽が今では音楽学校の科目の一つとなっていたとは驚きです。 時代の変化とは想像もつかないものです。 その世の中の変化に気づかせてくれたのが90歳になった歌手だというのですからやっぱり世の中は広いものです。 #
by omoshiro-zukin
| 2024-02-10 08:39
| おもしろ音楽
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2024年 02月 06日
ちょうど2000年が過ぎた頃のことです。遅まきながら数年間の間徹底的にジャズを聴きまくった時期がありました。
それこそハードバップから現代物まで有名盤はもとより、(こんなマイナーな人も知ってるんだ!)と昔からのジャズファンから驚かれるほど聞いた、まさにジャズ漬けの日々でした。 その後ころっとクラシックに転向してしまうのですけど、今でも時々はジャズも聞いています。 (早くも梅の季節となりました) ジャズを聴きまくっていた頃、好みの楽器はサックスよりトランペットの方でした。 そこでリー・モーガン、マイルス・デイビス、 ケニー・ドーハム、サド・ジョーンズ、ナット・アダレイなどの有名な盤を色々聞いていました。 するとミュートを使った演奏よりも突き抜けるようなトランペットの曲の方が好みだということがわかったのです。 そんな中で最初に好きになったのはクリフォード・ブラウンだったと思います。 (今でも手元にあるクリフォードのパリとアート・ファーマーの有名盤二枚) 随分と彼のCDを集めました。ところが残念なことにCDのクリフォードブラウンの音はとても聴きつらいのです。 今ではヘレン・メリルの伴奏(これは名演です!)のCDとたった一枚のレコードしか残っていません。 その後ずっとおとなしいルイ・スミスが好きになり彼のLPも結構集めました。 中でも彼の吹くバラードは柔らかくしっとりとして夜中に聞くにはぴったりでした。ところがいつの間にかこれも飽きてしまったようです。 ルイ・スミスは特徴のあるというよりは地味で堅実なプレーヤーだったのだと思います。 その後クラシックに転向してからはバタッと聞かなくなりこちらも全て手元から去ってしまいました。むしろモーリス・アンドレなどの方が好きになったからです。 ウイントン・マリサリスもよく聴きました。彼は今ではジャズ・アット・リンカーン・センターの芸術監督や音楽学校の教授などもやるというアメリカジャズの重鎮となっているのですが、なぜか日本のジャズファンの間ではあまり人気がないようなのです? そして現在はジャズの原点のようなバンドでデキシーランド風の古典的な演奏をしています? (下の帯付きの二枚のLPはまだ熱気に溢れた頃のアルバムです) 彼が一番勢いのある斬新な演奏をしていたのはデビュー後数年のことだったような気がします。 ウイントンはつい昨年来日してコンサートをやりました。 行きそびれましたが一体どんなタイプの音楽を演奏したのか興味のあるところです。そのウイントンも最近はすっかり聞かなくなりました。 そんな中で今でも聞いているトランペットのアルバムはブルーミッチェルの(Blue's Moods)とアート・ファーマーとジジ・グライス共演盤のLP、 そしてチェットベイカーのいくつかのCDアルバムです。 (下がその二枚のLPです。なぜか時々思い出したように聞いてしまいます。良いアルバムです) チェット・ベイカーは歌の方が有名のようですが、僕は彼のどこか抑えの効いた軽やかなトランペットが好きなのです。 チェットがスタン・ゲッツと共演している晩年のライブアルバムやマイ・フェアレディを作ったLERNER&LOEWEのコンビの曲を演奏したアルバム、ビッグバンドと共演している(Straight from the Heart)なども好きです。 今となってはチェット・ベイカーとブルーミッチェルが一番よく聞くジャズのトランペット吹きかもしれません。 そしてなぜか縁のあった(詳しくは先日書きました)ロイ・ハーグローブも結構聴いていたのですが、近年惜しくも夭逝してしまいました。 この間彼のドキュメンタリー映画を見て、なんとなく生のトランペットの音が聴きたくなっていたところでした。 そんなことを思っていたつい先日のことです。新聞を見ていたら(松井秀太郎)という人のコンサートの広告が目につきました。 それもサントリーホール(小)を皮切りに全国8カ所を巡るだいだい的なコンサートです。 どれもクラシックのホールだったので、てっきりクラシックの人かと思い興味を持って調べて見ました。 すると予想外なことにジャズのトランペット奏者だったのです。 コンサートもピアノ・ドラム・ベースというリズム隊を加えた基本的なジャズクアルテットによるものです。それがクラシックが演奏される会場なのですから珍しいことです。 (松井秀太郎)は東京都国立市生まれ。幼少期より独学でピアノを、9歳よりトランペットを始め、国立音楽大学附属高等学校を経て同大学ジャズ専修を首席で卒業したという経歴を持つ昨年デビューCDを出したばかりの若手トランペッターでした。 大規模なツアーを行うくらいなのですから実力もあるのでしょう。昨年すでにジャズクラブの名門ブルーノート東京にも出演していました ユーチューブでその青山のブルーノートでのライブを見て見ると一瞬目を疑いました。 トランペットを吹いていたのは若くて可愛い女性に見えたからです。 一瞬検索を間違えたかと思いましたが彼は女装で演奏するようなのです。まあ今の時代ではそれも違和感を感じません。 そんなことより大事なのはその演奏がなかなか素敵だったことです。久々に生のジャズトランペットを聞いてみたい気持ちにさせてくれたのです。 幸い近場の(みなとみらいホール)でライブがあるではないですか!もちろん小ーホールの方ですが、ここはなかなかに音も雰囲気も良いホールなのです。 クラシック専門のホールかと思っていましたがジャズもやるとは意外でした。 コンサート開始合図のドラの音(横浜なので船のドラです)とともに会場の照明が落とされるとあたりは本当の闇になってしまいます。ステージも全く見えません。 (みなとみらい小ホールは400席のなかなかに感じの良いホールです。今回のライブはほぼ満員に近いお客さんが入っていました) その暗闇の中で静かで繊細なドラムのブラシと小さなベースの前奏が始まります。 そして静寂の中から闇をつんざくようなトランペットが響き渡ります。なかなかに凝った始まりです。 この(よく練られて凝った)というのが終わって見るとこのコンサートをよく体現しているように感じられました。 彼が昨年発売したCDの中からオリジナル曲の演奏が続きます。いかにも現代風の演奏に聞こえます。綿密な構成の中で緊張感のある演奏が進んで行きます。 それにしてもトランペットの響きの美しいこと!!やっぱり生の音は良いとつくづく感じるのはこういう時です。 特に弱音の美しさは彼の演奏の特徴だと思われます。 弱音の美しさに聞き入っていると突然の大音量の噴出するようなエネルギーにも圧倒されます。 そしてトランペットならではの輝くようなブリリアントな響きにうっとりしてしまいます。 こういう音を聞くと我が家のオーディオ装置では絶対に再現できないなと痛感するのもいつものことです。 とはいえこれは僕が好んで聴いていた昔のジャズとは全くの別物です。何もこんなに難しくしなくとも!と思ってしまいます? かのウイントンが聴いたら(だから日本人にはジャズはできないんだよ!)と言われてしまいそうな?きちっとした真面目な演奏です。 ハードバップの時代のジャズが持っていた行き場のない情熱とか熱気というようなものは感じられません。 赴くままなの感情の噴出というような原始的なものは綿密な計算の中に埋もれているように感じられます。それが現代的ということかもしれません?がなんだか理屈が多すぎる気がしてしまうのです。 (下は梅にウグイス、と言いたいところですがメジロです。梅の木によく来ているのはほとんどがメジロです) それでもこのクアルテットの技術の高さには唸ります。最近の若者のテクニックはすごいものです。昔聞いたことのあるセルゲイ・ナカリャコフを思い出しました。 それに加えて若さがあります。その若さが炸裂するのを聞くのは気持ちの良いものです。もう少し余裕とかリラックスとかいう言葉が見られるようになれば良いなと思ってしまうのは僕が年をとっているせいでしょう。 最近の音楽は歌にしろ演奏にしろ自作自演というのが一般的のようです。今回も自作の曲ばかりでした。 しかし無理にそれに束縛されることも無い気がするのです。むしろその方が自由になれるのかもしれません。 というのも僕がジャズから離れてクラシックを聴くようになった理由に(クラシックの方が自由に演奏しているように聞こえた!)いうことがあったからです。 制限がある方がより自由になれるというのも面白いことです! クラシックではもう何100年の間同じ曲が演奏され続けています。それでも飽きずに面白いのは演奏者が違うからです。 これがジャズにあっても可笑しくはありません。実際ジャズでも同じ曲を様々なミュージシャンが演奏しています。これは決して悪いことでは無いと思います。 特にスタンダードとよばれる曲はクラシックの名曲に負けないほど良い曲がたくさんあります。演奏が良かっただけに今回のコンサートでスタンダードが一曲も聴けなかったのは個人的には大いに残念でした。 と色々注文をつけてしまいましたが、とても聞き応えのある良いライブでした。控え目なPAと音響の良いホールのおかげで生の音の気持ち良さも十分に楽しめました。 休憩が終わり第二部が始まるといきなり後方からトランペットの音が炸裂します。 たった一本のトランペットだけでこんなに大きな音で響くのかというほどの音量です。吹きながら会場を一周してステージに登るという演出です。 朗々と響くトランペットの音は響の多いホールの残響でより伸びやかに聞こえます。 こういう音はPAが多用されるジャズのライブハウスでは味わうことはできないコンサートホールならではの良さでしょう。 しつこいようですが、こんな美しい音色で最後に(I remember Cliford)が聴いてみたいなと思ったのはやはり僕が古いジャズが好きだからなのでしょう。 久々にジャズトランペットをたっぷり楽しめることが出来た素敵なコンサートでした。 #
by omoshiro-zukin
| 2024-02-06 10:38
| おもしろコンサート・ライブ
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2024年 02月 01日
今回の展示の中で一番印象に残ったのが有名な(鶴下絵三十六歌仙和歌巻)だったというのは我ながら意外でした。
というのもこの有名な作品は今まで色々な本で散々見ていたからで、すっかり本物も見ていたような気になっていたからです。(何を今更!!)みたいな気持ちでした。 ところが実物を見ると今まで本などでよく知っているこの作品とは似ているようでいてまるで別物だったのです。 普通はよく知っている作品に出会うと(あっ!これ知ってる)程度で通りすぎてしまうこともあったりするのですが、これは全然違います。 それはちまちまとした本で見るのと違って、ひときわ大きくて雄大で美しかったのです。 (下は(鶴下絵三十六歌仙和歌巻)の一部、こうやって一部だけ画面で見ると大した感銘は受けないのですけど・・・) これはある意味怖いことです。何度も同じ作品を写真や画像で見ていると脳はすっかり実物を見たものと判断してしまうのです? スマホで世界の全てが見られると思っているのは実は大きな間違いなのです。演奏会や展覧会が面白いのはそこのところです。 今回はこの雄大な大作をゆっくりじっくり見られたことも大いに幸いしているはずです。 混雑しているだろうと覚悟して行ったら開幕2日目だったためかこんなに空いてていいの!というほどガラガラだったのです。なんという幸運! この(鶴下絵三十六歌仙和歌巻)はなんと全長が約13.6メートルの長さがあります。それが一気に広げられて展示してあるのでそれはそれは壮観です。 端から端までじっくり見ながら歩くと結構時間がかかります。空いていたので何往復もしながら見ることができたのは実に素敵な体験でした。 混んでいたら行列で順番に移動することになりそれはだいぶ興ざめだったことでしょう。 この作品の実物が印刷物や画像と大きく違うのは全体を見られることにもあります。 鶴たちが佇んでいるところから始まり大空に飛び立つところ、そして悠々と飛んでいるさま、戻ってくるところ、その全てを物語として連続して見ることができます。 宗達の絵はシンプルな筆使いなのですが、この絵を見ていると湖で本物の鳥の群れを見ているような気にさせられます。 そこにまるで抽象画といってもおかしくないような光悦の文字で三十六歌仙の和歌が描かれています。この文字が絵と一体となってどちらが欠けても寂しくなるような完璧で独特の世界を作り出しているのです。 他にも宗達と光悦はたくさんの歌の素晴らしい色紙を作っています。勿論色紙も沢山展示されています。 そもそも僕が光悦を知ったのも歌の色紙でした。 歌をしたためる時の光悦の筆さばきはまさに自由闊達、天衣無縫です。それは一連の仏教関係の写本とは全く異なります。 残念ながらこれを読めないのでどんな歌かわからないのですが、当時の教養ある人が見れば当然歌の意味が目に入ってくるはずです。 当時の人が鑑賞すると絵と文字の面白さに加えて歌の素晴らしさという要素まで加わってくるのですから何という豪勢な芸術品なのでしょう。 しかもこんな現代では美術館でしか見られないようなものが驚くべきことに工芸品のような扱いで流通していたのです? こんな高度な総合芸術は世界でも類を見ないのではないでしょうか?本当に昔の日本の文化度の高さには驚くばかりです。 文字を図案としてしか見ることしかできない僕でさえ何度見ても面白く飽きずに見られるのが光悦の文字のすごさかもしれません。 もう一つなんと凝ったものを作っていたのかと驚いたのが(謳本)の数々です。 最近能に興味を持ち出して謡本など手に入れたりしていたのですが、こんなに美しく凝った謳本が作られていたことを知りまたまた驚きました。 字も美しいのですが、注目するのはその凝りに凝った料紙(りょうし)や装丁です。一体どこまで美意識が高いのでしょう! これらの料紙は平安時代の意匠を光悦が独自の美意識でアレンジしているのですが、料紙だけが展示してあっても現代美術の作品として通用する気がします。 文字だけでなく表紙から料紙に至るまで細部まで徹底してデザインされて作られていたことに思わず感動してしまいます。 以上が今回の展覧会のごくごく一部の作品についての感想です。 これ以外にも光悦は刀の鑑定士としての顔も持つので数々の名刀の展示、見事な鍔、さらに光悦印の木製の印、そして有名な船橋蒔絵硯箱を始めとする素晴らしい蒔絵の数々・・・と見るものに枚挙にいとまがありません。 (光悦はこんな感じだったらしいです) いやはやなんともものすごく見応えのある展覧会でした。まさに光悦の天才ぶりと大宇宙を堪能できました。 それに加えて当時の日本という国がこれほど素晴らしい作品を生み出すほど成熟した文化基盤を持っていたのには驚くばかりです。 そんな素晴らしい作品の価値が明治維新から現代に至るまで日本人の常識になるほどには知られていないのは(僕だけかもしれませんが?)何故なのだろうと思ってしまいます。 それにしても見逃さないで良かったとほっとため息をついたのでした。おっとり刀でぜひどうぞ。 #
by omoshiro-zukin
| 2024-02-01 09:34
| おもしろ美術
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2024年 01月 28日
(本阿弥光悦の大宇宙)はまるでヴァイオリン・ソナタしか知らなかった人が初めて交響曲を聴いた時のような衝撃でした?見終わってそのすごさに思わずのけぞりました。 今回の展覧会の副題にあった(天才観測)とか(大宇宙)という言葉は全く大袈裟ではなかったのです。 (世の中知らないものだらけ)というのは最近しょっちゅう僕の口から呪文のように飛び出してくる言葉ですが、今回もまさに同じです。 あまりに素晴らしいものがずらっと並んでいて、ひたすら圧倒されるばかりでした。僕がいうまでもないですがやっぱり光悦は天才だったのです。 実はこの展覧会に行くかどうか迷っていた時、日本美術に詳しいBTさんに尋ねたところ「光悦茶碗は大変に重要で、一碗でも出ていればいそいそと何度でも出かけます」という返事をもらいました。 この一言を聞いて、なるほど茶碗一つでもそういうことなのだからこれはすごいに違いない、とすっかりその気になってしまい行くことを決めたのでした。 (下は三渓園です。三渓さんが以前所有していた光悦茶碗も今回出品されていました) とは言え茶碗については少し懐疑的でした。というのも茶碗というのは美術品の中でも最も分かりにくいものだからです。 僕としては茶碗は解らないだろうけど、茶碗一つでもそれだけ見たいという人がいるのだから他はもっとすごいのだろうと言った感じで茶碗を見ることにはあまりこだわってはいませんでした。 (過去には道具だったものでも時代を経て美術品になってしまったものと違い、お茶の道具である茶碗は今でも道具として使われている実用品であることがその価値判断を難しくしている)というようなことを橋本治が本に書いていたのを読んだ覚えがあります。 その通り茶碗の鑑賞はとても難しいのです。 例えば豪華絢爛に装飾された蒔絵の(硯箱)などは本来実用品でもあるのですが今では誰が見ても間違いなく美術品にしか見えません。 それが素朴でこれといった装飾もない茶碗となるとやはり実際に手に持って見なければその良さは解らない気がするではないですか。 ところが会場に入るとずらっと光悦の茶碗が並んでいたのです。 それはなんだか並々ならぬ雰囲気を醸し出しているではないですか! さすが名品だけあってそれぞれの茶碗には(時雨)(雨雲)(村雲)(冠雪)など様々な銘がつけられています。一体誰が名付けたものか、いかにもぴったりなのです。 その名前を見てから茶碗を見ているとなんだか良さがじわじわと伝わってくるような気がします。 光悦の茶碗は華々しさみたいなものはありませんが、どこか温かみのあるエネルギーとか大気のようなものが伝わってくるのです。 しかもその展示の数が半端ではないのです。光悦の茶碗が10個にさらに香合が1個並べられて展示されているのですから圧巻です。 そればかりか丁寧にも光悦が手本にしたと言われる長次郎の茶碗まで展示してあるのです。 それは期待していなかった分だけ予想以上の素晴らしさでした。(なんだ!茶碗だってすごいじゃないー!)となんだか訳も分からず感動してしまいました。 これだけの展示の展覧会だとしても見にくるだけの価値があったなと思ったのでした。(一つだけでも見に行く価値があると言ったBTさんは流石です!) と書きましたが、この茶碗が展示してあるのは4番目の最後の展示屋なのですから、それだけでもこの展覧会のすごさがわかるといいうものです。 (下は今回展示されていた光悦が模写した立正安国論が幕府に差し出された場所と言われる光則寺の山門) 全く前回の(やまと絵展)といい今回の(光悦展)といい東博の特別展示はあまりに大きすぎて見るのが大変すぎます。 入場料を半額にして2回に分けて展示してくれれば良いのに3回でも良いくらい、などと余計なことを思ってしまいます。 そんな大規模な展覧会なので僕ごときではその全容を説明すらできません。 展示内容に興味がある真面目な人は他のためになる情報を読んでいただくこととして、すでに書いた茶碗以外に記憶に残ったいくつかのことを書いて見たいと思います。 (下は光悦が信心していた日蓮宗の最古のお寺の妙本寺、海堂の季節に) 今までいくつかの作品を見ていて光悦が大天才だとは知っていましたが、どんな人間だったかというのはとんと知りませんでした。というより芸術家という雲の上の特別の存在のような気がしていたのです。 今回の展覧会を見て光悦がものすごく信心深かったことがわかりました。 珍しかったのは光悦が文字を書いた扁額(へんがく・寺の外に掲げられている看板)がいくつか展示されていたことです。 それも京都だけでなく東京、千葉と京都から離れたお寺のものもあるのです。いかに光悦が日蓮法華宗の熱心な信徒としてお寺とも関係が深かったことがわかります。 (下が今回展示されている光悦の書いた扁額、借り物写真です) さらには法華経の題目を書き写したものとか、日蓮の立正安国論や書物などを書き写したものなど膨大な量の仏教関係の書が展示されていました。 どれも巻物として延々と長いもので書き写すのにいったいどのくらいの時間がかかったものか想像すると、光悦がいかに信仰が厚かったのかが伺われます。 しかも興味深かったのが歌の書かれた色紙とは全く異なる字体です。のびのびとして自由闊達な歌の字とは異なり極めて几帳面な文字で書かれているのです。 (同じく日蓮宗最古のお寺、妙本寺) 50歳くらいから痛風にかかり手が震えて思うように筆を持つこともできないまま80歳で亡くなるまでの間、仏の教えがどこまで彼を支えたのか知る由もないのですが、決して天上の天才ではなく悩みを持って生きていた実在の人間として感じられたのでした。 (続きます) (下は光則寺の入り口 桜の季節) #
by omoshiro-zukin
| 2024-01-28 08:58
| おもしろ美術
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