TANNOYを訪ねて・・前回の続きです。マタイ受難曲を色々聞いてみました。 |

上の写真はIさんが2階からよっこらしょと持ってきたマタイ受難曲のLPレコードのBOXを床に並べて撮ったものです。(一部クリスマスオラトリオも混ざっているかもしれません?)
特に集めているつもりはなかったそうですが、気がついたら自然とこんな数になってしまったそうです。
Iさんによればそれぞれの年代で好きなマタイが違っているそうで、Iさんが一番好きなのは一番有名なカール・リヒターのものだそうです。
リヒターはこの後もう一度録音していますが、やはり最初の盤が圧倒的に良いそうです。(その他に日本でのライブ録音もありますが、これは録音が悪いとのこと)
リヒターのマタイが好きなのはアリアや合唱がその歌詞の内容とぴったり合っていて、マタイ受難曲の悲しみが一番感動的に表現されているからだそうです。
確かに僕が聞いても重厚で、ぐっと迫ってくるような迫力ある演奏はとても劇的で感動的に聞こえます。
Iさんの信頼する工藤氏による特製の真空管アンプとGRFから出る音は、深い悲しみを、地の底から響くようなコラールや、情熱的と言って良いほど力強いアリアで熱く聞かせてくれます。
特に人間の声の持っているエネルギーを表現するのは大得意のように感じられました。

【涙なくしては聞けない(すすり泣きが録音されている?)と巷で評判のメレンベルグのものはどうですか】と聞いて見ると、すげなくあれは評論家が有名にしただけだよとつれない返事。
どうやらあまりIさんのお気にめす演奏では無いようです。
ほかにはクレンペラーのものも、あまり良さがわからない?とちょっと苦手なようです。
リヒターの次に好きなのが下の写真のフリッツ・ウェルナーのものというのは、いかにもエラートレーベルに強いIさんらしいところです。

宗教曲のアリアとオペラのアリアでは歌い方に微妙に差があり、宗教曲をオペラ歌手が歌うとしっくりこない場合が多いのが難しいところです。
これがぎりぎりのところで何とか成立しているのがフレーニとベルガンザが歌うペルゴラージのスターバト・マーテルかもしれません。
これもIさんのところで聞かせていただいて以来、大のお気に入りのアルバムとなりました。
あまり暗いマタイだけではと、ヘルムート・リンクのクリスマス・オラトリオも聞かせてもらいました。
この曲では彼の演奏が一番好きだそうです。
僕もマタイは好きなのですが、多く聞いているのはこちらの方だったりします。それにクリスマスのほうがずっと明るいにきまってます。

僕が持っているマタイは、定番のリヒターのもの(CDです)、そしてミュンヘンガーのもの(これは例の美しいアリアをアーメリングが歌っているので有名です)、そして意外にも一番良く聞くのがアーノンクールのものです。
これは合唱団に少年少女が入っているためか、アーノンクールとは思えないようなすっと胸に飛び込んでくる素直な演奏となっています。
(アーノンクールがこのほかにもう一度この曲を録音しているのをこの日初めて知りました)
最近気に入ってよく聞くのが小澤征爾指揮、サイトウキネンオーケストラが松本で演奏したライブ盤です。
現代楽器による演奏ですが、古楽器の演奏方法も取り入れていて重厚でいながらも清廉かつ丁寧で心のこもったよい演奏だと思います。

そしてかわり種では、アメリカのバッハの研究家でもあるポールマクリューシュのものも持っています。
これはバッハが生きていた時代には、いまよりはるかに少ない人数で演奏されていたはず、という彼の説に基づき最初限の人数で演奏しているものです。
清楚な感じはするのですけど、こんなに早かった?と思うほどのスピードでさっぱりと演奏されているので、聞きなれたマタイとのあまりの違いにあっと驚いてしまいます。
なんせ通常ならCDでも3枚組が必要なのに2枚で収まってしまうのですから!
これだけマタイの録音は沢山あるのですが、残念なのはアバドとモーツアルト交響楽団の演奏するマタイを聞くことができなかったことです。
彼がこのオーケストラで録音した2枚のペルゴレージの宗教曲のアルバムはとても好きだったので、マタイを録音してくれればそれは素晴らしいものになったのではと想像するのです。
そういえば最近の有名な指揮者は意外と思えるほどこの曲を録音していないようなのは、近頃はこの曲の人気があまりないためでしょうか?

僕が小学生の頃は毎週日曜日にはまじめにカトリックの教会に通っていました。
(今の僕を知る人には想像できないでしょうけど・・・事実はいつも想像より驚きに満ちています!)
カトリックの教会の両側の壁には必ずキリストの受難の場を描いたリレーフや絵が入り口から祭壇まで順番に並んでいます。
復活祭の前の金曜日にはこの絵を順番に巡って、その前でお祈りするのです。(今ではやっていないようですけど・・)十字架の道行きという言葉をいまでも覚えています。
ロザリオという物をご存じでしょうが(数珠のようなものです)、これはお祈りの道具として使われるものです。
子供の頃これを首からかけたりするのを見ると違和感を感じたものです。
このロザリオの玉を括りながら絵の前を移動し何回お祈りをしたのか数えるのです。

基本的には主の祈りを1回となえ、10回めでたし・・(アヴェ・マリア)をとなえ最後に榮唱をとなえるというのを繰り返すのですけど、すべての絵を回るのは相当時間がかかり随分と退屈だった思い出があります。
この教会の壁の絵をそのまま歌にしたものがマタイ受難曲です。
キリストが貼り付けになるまでの情景を描いているのですからとても暗い曲になるのは当然です。
しかし教会の絵の前を順番にめぐりながら受難におもいをはすことに比べればなんとなんと楽なのでしょう。
なんせ座って音楽を聴いているだけでよいのです。しかもその音楽がとびっきりすばらしいものなんですから!
この曲を聴いていつもすごいなと思うのは、聞いている人が飽きないように(たぶん)、手をかえ品をかえて、独唱だったり、合唱になったり、そしてアリアの伴奏の楽器もさまざまに変わることです。
特に涙なくしては聞けない?といわれている有名なアリア、ペテロがキリストを裏切ったことを嘆く歌はバイオリンと歌が見事に調和してこれ以上美しい歌はこの世にほかにないのではと思わせるほどです。

これだけダイナミックに変化にとんで、かつうっとりとするほど美しい曲が受難を想起するのにふさわしいかどうかは疑問のおこるところです。
なぜなら聞きほれてしまって、受難をしのぶどころかむしろ快感に感じてしまうことだってあるからです。
この曲がメンデルスゾーンが発掘?するまで100年も眠っていた理由もそのあたりにあるのかも知れません。
教会で演奏するにはあまりにも美しすぎるというわけです!
そうえいばペルゴレージのスターバトマーテルもそのあまりの甘美さゆえに、逆に信仰の妨げになると教会での演奏を禁止されていたと何かの本で読んだ記憶があります。
それはともかくとして、様々な素晴らしい宗教音楽を聴いていると現代のキリスト教の教会(カトリック、プロテスタントを問わず)で、こういった素晴らしい音楽が生かされていないような気がして、とてももったいなく感じるのです。
なんせ今では入場料金を払わなければ聞けないような音楽が、昔は教会に行けば無料で利き放題だったんですからこんなに宣伝になる事はありません!今それをやったら教会にどっと人が押し寄せるはず?
そんなことをうつらうつらと考えながらも、さまざまなマタイを聞かせてもらったのですが、僕にはむろんちょっと聞いたくらいではその違いはわかりません。

最後はマタイを離れ、もっと人間臭いプッチーニのトスカの有名なアリアをカルロ・ベルゴンツィとステファーノという極めつけで聞きました。
その熱くて燃えるような迫力ある歌声は、現代の歌手とは段違いなほどりアルで迫力があり、僕をすっかり俗世間の好いた惚れたの世界に引き戻してくれたのでした?
それにしてもIさんのGRFで聞く歌声は本当にエネルギーたっぷりで、こういう声楽ものを聞くと特に本領を発揮するようです。
家に戻ってリヒターのマタイを聞きなおしてみたのですが、Iさんのお宅のようなエネルギーと厚みのある低音やダイナミックさに欠けるのがちょっとばっかり寂しく感じました。
それでもその胸にせまってくるような迫力ある演奏は僕の装置でも十分に味わえることができるのですから、優れた音楽はなにものをも超越してしまうようです。

