駅の発車メロデイを聞いて思う事。日本人と音楽の素敵な関係! |
昔の駅の発車の合図と言えばたんなるベルの音だった記憶がある。それがいつのころからメロデイのあるものに変わったと思っていたら最近耳にするのは音楽そのものではないですか?
良く利用する駅で記憶に残るのは、まずは鎌倉駅の曲≪鎌倉≫。小学生時代に遠足で鎌倉に来た時バスのなかで歌った記憶のある古い童謡で、なんとこれがフルートの音色(しかも二重奏?)で奏でられるのです。
【七里が浜の磯つたい、稲村が崎名将の剣投げせし古戦場】という一フレーズで途切れてしまうので、思わず全曲流して欲しいと思ってしまいます。
品川駅の【鉄道唱歌】も不思議です。これは従来の電子音によるメロデイですが、【汽笛一斉新橋の】という歌詞だったはずなのになぜ品川駅でこの曲なのかいつも不思議に思います。
最後に【ボッー】という汽車の汽笛の音が入っているという凝り方です。
横須賀線の武蔵小杉の発車メロデイもちょっと記憶にのこります。というのはここは主メロデイに低音部がついていてハーモニーとなっているからです。
こういうのを聞いているとこれから発車メロデイも単音ではなくハーモニーなどどんどん凝っていくのではないかと思います。
昔ヨーロッパを旅行するときに気をつけなくてはと言われたのが、駅の発車合図です。
ヨーロッパでは時間がくると静々と列車は発車してしまうのです、ベルどころか何の合図もありません。
最近はヨーロッパに行っていないので良くわかりませんが、知人の話によるとパリの郊外線でなんと日本語と韓国語など数カ国語のアナウスが流れたので驚いたと言っていたので、随分事情が変わっているのかも知れません。
しかしいかに事情が変化しようとも日本のように各駅ごとに、場合によってはホームごとに電車の発車メロデイを変えるなどという発想は金輪際出てくることはないでしょう。
このきめの細かい音楽の使い方は世界中広しといえども日本だけのものではと思います。
音楽というものはそもそも神様との関係から生まれたもの。
豊穣を願ったり、天候の安定を願ったりするとき神様にささげられるために出来たものだと思われます。
それが日本においては特定の物や人間のものになることに抵抗がないのです。
(たとえば落語のでばやしなど、その曲を聞くと誰だかわかるというのはすごいことです。西洋音楽ではワーグナーまでそれが出来なかったのですから?)
そのように日本人の包容力は優れたものです。
日本古来の宗教である神道もものすごく包容力のある宗教です。何と言っていっても亡くなった人はだれでも神様になってしまうのですから!
その人を祭って神社を立てることも自由です?(乃木神社は明治の乃木将軍を祭った神社です)
自分のとこの神様以外の像は一切拝むなとか、偶像そのものさえ禁止している宗教にくれべるとなんとおおらかなことでしょう。
これは昔おやじが神主だった知人から聞いた話なので正確かどうかわかりませんが、昔は祈りの文句さえその場で即興で作っていたそうです。
(最近の神主は即興では作れないので定型のお祈りが作られるようになったとのことです?)まるでJAZZの即興演奏のようなもの!
西洋音楽(音階も?)が日本に広まったのはせいぜい明治以降のことです。しかしこれが広まるのも実に早かったのです。
西洋社会では音楽と神との深い関係から抜け出すために長い時間を必要としたのに較べ、人間と神様と物の関係の近い日本ではそんな葛藤もなくすんなりと社会に溶け込んで行くことが出来たのです?
そして亡くなった人が誰でも神様になれるように、また台所をはじめ身近な場所に沢山の神様がいるように、日本独特の包容力によって音楽もまたそれぞれの場所で活躍できる場を持つことが出来たのです。
そういう歴史的な背景無しにはそれぞれの駅が独自のメロデイを持つという発想は出てこなかったのではと思うのです。
たかが駅の発車メロデイですけど、色々理屈をつけてみると遥か日本の歴史まで辿ることが出来たりして、それが当たっているかどうかはともかく、色々な想像をめぐらす事が出来るのは楽しい事です。
今回の写真は横浜の風景です。青春時代を横浜で過ごしたせいか、横浜に来るといまでもなんとなく落ち着きます。
ひなびた漁村が外国からやってきた新しい文化をものすごい勢いで取りこんで行ったそのエネルギーの残滓は今でもどこかにひっそりと残っているようです。東京とはどこか違った空気を感じるのが今でも横浜の魅力です。
気がつくと横浜に足が向かっているのもしょうがないことですね。
東京だとなんだかソワソワしちゃいます。
慣れてないからですかね。