気がついたらややこしいことになっていた。【BD-1】と【DP-1】 |
この間僕の使っていたカメラのDP-1で撮った写真がすべてピンボケになっていました。
手動に切り替えてもピントがまったく合いません。修理に出そうと思ったのですが、問い合わせたところ修理代より中古を購入したほうがに安いので再び同じカメラをオークションで落札しました。
今回の写真はそのカメラで撮った先週末の東慶寺の写真です。やっと咲いた梅が満開になっていました。
と思っていたら今週は近所の木蓮の花も満開です。一気に世間は春めいてきました!
いまさらですが、そこで初めて気がついたのが乗っている自転車がDB-1、使ってるカメラがDP-1だと言う事。なんだかとっても紛らわしい名前ではないですか!同じようなネーミングの物を愛用することになったのはまったくの偶然ですが、こういう些細な偶然にはなんとなく嬉しくなります?
さてこのDP-1ですが僕のはまったくの初代モデルなので、値段は発売当時の10分の一程度、約1万円少々で買えると言う手ごろさです。これでは修理代のほうが高くなるのもやむを得ないところです。
どうしてこのカメラなのかという理由は二つ。一つはメインカメラたる8年ほど前のガラ系携帯が実に奇麗に撮れるので、そのレンズと同じ構図で撮れるレンズ(広角28ミリ相当)のカメラが欲しかったこと、そしてもう一つが最近のデジカメの現実離れしたクリアーさとキラキラした華麗な色彩にどうも馴染めなかったことです。
そこいくとこのdp-1で撮るとむかしのカメラで撮ったような色合いに近いように感じられるのです。
メインカメラたる携帯のカメラの写りの良さには驚くばかりです。
そもそも携帯で撮った写真があまりに奇麗なので、それからどんどん写真を撮るようになりこのブログだってその写真が溜まったので始めたようなものです。
実を言えばそれまではあまりにも自分のイメージ通りに写真を撮ることが出来なくて、写真には向いていないのかとすっかりあきらめていたのです。そこに突如現れたのがこの携帯、夕焼けの空などがあまりにも美しく撮れるのですっかり写真好きになってしまいました。
それ以前のフィルムカメラ時代に使っていたのはリコーのGR-1でした。こちらも定評あるコンパクトカメラのはずですが、このカメラで満足のいく写真が撮れたことは一枚もありません。
何度も訪れた旅先のナパで美しい夕暮れに出会う度にシャッターを切って、期待して現像してみるといつもがっかりということばかりでした。どうしてこんなにもうまく撮れないのだろうと、当時ブログを始めたばかりのころ綺麗な写真を載せていたGRFさんに質問したことがあります。
答えは【慣れじゃないですか?たくさん枚数を撮ることです】と言われたのを覚えています。それが今ではそのGRFさんに写真を褒められたりするのですから驚きです。
その理由はけして腕が上がったわけではなく、すべて優れた携帯のカメラにであったことなのですから不思議です。
最近のフェイスブックなどの投稿を見ていると昔だったらプロが撮ったようなクリアーで美しい写真が山ほど投稿されています。しかし・・・と僕は思うのです。そんなに奇麗すぎなくっても好いじゃないか、そんなにクリアーじゃなくっても良いじゃないかと思ってしまうのです。
特に自然の色からかけ離れてしまっているような美しすぎる色はかなり人工的で違和感を感じてしまいます。
もしかしてこれは僕がそう感じるだけで、大半の人には違和感の無いものなのかも知れません。
最近のシネマコンプレックスの刺激的な音を良いと感じる人がいるように、この間いったレストランに満足する人が相当数いるように、人の好みというのは実に千差万別で、最近ではむしろ自分が少数派のように感じてしまうほどです。その好みの良しあしを判断するつもりはありませんが、一つだけ恐ろしいのはどんなことであれ自分が一番慣れていることが一番自然で心地よく感じられるてしまうという事実です。
なぜそれが怖いかというと常に刺激の強いものばかりの中にいるとその刺激が当たり前になってしまい、その刺激が自分に合った環境として認識されてしまうからです。
例えばコンビニの食べ物など、最近は味のレベルが随分と上って、これはおいしいじゃない!と思う物が増えてきているのですが、その特徴は味が濃いこと、そして大量の防腐剤やさまざま人工調味料が多用されていることにあります。
最近の小学生には【味盲】の人が増えているそうですが、この【味盲】は一週間ほど自宅できちんと作った家庭料理を食べさせると治ってしまうそうです。
このように味、音、画像などすべて刺激が強いものに馴染んでいると、それが一番心地よいものになった結果刺激の強いものしか感じられなくなってしまうのです。
ゲームなども画像や音のリアリテイが増せばますほど、それがふつうのことと認識されていき、その認識が現実の世界にフィードバックされたとき、どちらの世界がほんとうなのか区別がつかなくなっていくことはないのでしょうか?
いかんいかん、どうも根が真面目なものでして、たかがカメラのことを書いているつもりがどんどん横道にそれてしまいました。カメラに戻ることにしましょう。
さて携帯でデジカメに目覚めた僕は、さらなる飛躍を求めて?というより携帯のカメラが壊れたときの予備のカメラが必要と思ったのです。なんせこの携帯はかれこれ購入してから7,8年は経とういうしろもの。しかし知人のI-PHONEなどの写真と比較してもあきらかに一枚上手の美しさなのです。
そこで携帯と同じズームなし28ミリ相当の広角だけというカメラのなかから、なんとなくよさそうと選んだのがこのDP―1だったのです。
さてこの最初期のDP-1、カメラとしては大変に使いにくい物です。本来この手のマニア向けのカメラを使う人は専用現像ソフトを使い、変な加工の出来ないRAWという画質で撮るのでしょうが?僕みたいな面倒くさがりやは普通のモードで撮ります。すると赤色は紫のように見えてしまうのです。
最初は驚いたのですが、【マゼンダかぶり】という名前まで付いているほど普通の事のようなのです。
その原因はDP-1で使っている方式が既存のパソコンの再生ロジックと合わないためらしいのですが、そういうわけで紅葉などはとっても苦手なカメラなのです。加えて接写は出来ないとか、ちょっと暗いとうまく写らないとか、ピント合わせが遅いか、ともかく性能的には今のコンデジには圧倒的に劣っているのは間違いありません。どこが良いかと言えばぎらぎらとしたどぎつい色調にならないということだけです。
最後にBD—1を選んだ理由も書いておきましょう。こちらは脚力に自信がなかった僕が、伊藤礼さんが書いた【自転車ぎこぎこ】という本を読んで、自転車買うんなら疲れたときパタパタと畳んで帰れる折り畳み自転車しかない!と確信したこと。
そして雑誌などで折り畳み式自転車を物色していたら一番かっこよさそうだったのがBD-1だったのです。
最近はぐっと総経距離が落ちたとはいえ、たぶん我が家にきてから2万キロ以上は軽く走っているはずで、先月すでに交換してあった後輪に続き、前輪のタイヤも交換したところです。
思いがけない全面宙返りなどもあったとはいえ、いまだにドロップハンドルのブレーキ握りや前傾姿勢に慣れない僕にはファーストバイクとしてのゆるぎない地位を保っているのです。
DP1写りが良いですね!
広角で寄れますし、被写体を選ばずに、
何処でもなんでも写せそうですね。
自分には、まだ28mmという画角は難しいですね。
35mmでも、まだ扱えてません・・・