恥ずかしながら? 寺島靖国さんのオーデイオ本の大ファンです! |
オーデイオ関係の本はどうしてこんなにつまらないのかと思う本ばかりですが、元JAZZ喫茶の親父(今でもか!)現在では物書きであると同時にCDのプロデユースまでやってしまうというその世界では名高い寺島靖国さんが書いたオーデイオの本はとても面白いのです。
その証拠にかなりの読書家と自負している僕が彼のオーデイオ本は残らずもっているばかりか、何度も読み返してさえいるのです。もはや愛読書のひとつと言っていいでしょう。
ちなみに僕が何度も読み返して面白いと思うのは村上春樹の随筆とこの寺島さんのオーデイオ本くらいですから、大したものだと言えるでしょう??
ただし僕が愛読しているのはもっぱらオーデイオの本だけで、彼の専門?であるJAZZ本は読むことは読むのですがそちらはそれほどファンと言うわけではありません。
気合の入り方がどっちがといえばオーデイオ本のほうが上だからです?
(下の写真が僕が愛読している寺島さんのオーデイオ本です。寺島靖国丸ごと一冊のムックまであります。)
表題に思わず書いてしまいましたが、どうして寺島さんのオーデイオ本の愛読者だと少しばかり恥ずかしいと感じるのでしょう?
それはもしかして寺島さんに大変失礼なことではないかと思うのですがしょうがありません。
JAZZの本はそんな引け目を感じないのでそう感じるのはオーデイオ本に限ってのことと思います。
どうしてそんな事を思ってしまうかと言うと、オーデイオについては書いていることがかなり偏っているうえに、肝心の音についてもあまり信用できない?と思っているからに違いありません。
とはいえ僕が寺島さんの音を聞いたのは一度だけ、それは彼のお店にアバンギャルドのスピーカーが入った直後のことでした。
店に入った僕はそのあまりの大音量と耳をつんざくような高音に耐えかねてコーヒーを飲む間もなく5分とたたないうちに店を出て、あまりに驚いたので気を静めるためにちょうど前に在ったクラシック喫茶に入りそのたおやかな音で耳を休ませたのでした。(失礼!)
今思うとその頃は僕もまだオーデイオ初心者だったし、アバンギャルドもお店に来たばかりで機嫌が悪かったのでしょう。それにしても強烈な音でした・
そんな僕の経験が彼の音を判断する材料として少しは影響はしているのですが、寺島さんの音が一般的に言われる良い音でないということは本人が何度も書いているのですから僕がそう書いてもやむをえないでしょう。
本の中では実に様々な人々がそう判断しているようです。それはオーデイオ会社の社長からケ―ブルを作っている人、ただのマニアを含め数えられないほどの部屋を訪れた人が彼の音を聞き、その誰ひとりとしてその音を褒めた人はいないようなのです。
それはそうです。なんせベースだけ聞くとか、シンバルだけに耳がいくとかともかくまったく人とは違ったところを聞いているのですから!
さすがに最近はいわゆる標準的な良い音に近づいてきたようで、立体的とか楽器の位置とか空間などと音以外のことにも耳が向くようになった様子。そのためかどうか随分と褒めてくれる人も出てきたようです。ひとごとながら嬉しく思います。
そんなに音が信用できないのになぜ彼のオーデイオ本が面白いか?
その最大の理由は文章のうまさにあるのですが、そのうまさの裏にはこう書いたら読者が面白がるだろうなというサービス精神が溢れていることにあります。
だいたい面白いエッセイというのは失敗談を書いたものが多いのですが、それはだれもが人のちょっとした失敗をギャグとして受け取るからです。
その基本形が【こける】ことにあるのですが、この本の寺島さんのオーデイオにまい進する姿もこける事の連続です。それを本人があえて明らかにすることによってそこに笑いが生まれるのです。
実はそこには確信犯的な意図があるのですがそれを感じさせないのが文章のうまさでしょう。
もう一つの特徴は権威を否定する精神でしょう。これは都会人ならではの【恥ずかしい】という感覚と表裏の関係にあります、どうだ俺が一番わかっているんだ!と心の中で思っていても、それを照れなしに披露するのは都会人としてはとても野暮に感じます。
権威にへつらうのも都会人としての美学に反します。ましてや自分が権威になるなど照れくさいのです。
もっとシンプルに表現すると彼のオーデイオ本の立っている位置は庶民のための娯楽=【落語】と同じなのです。
それゆえに庶民に成り代わって身銭を切り八方破れの無駄使いして、その結果をおもしろお可笑しく報告してくれるのですからありがたいことです。
オーデイオ雑誌でも車雑誌でもつまらない最大の原因は広告費をもらっているため、正直な感想を書けないことです。そこいくと寺島さんは身銭を切っているのですから強いです。
もちろん人間関係がぎくしゃくしないように気を使っていたりもするのですが、それでも率直な感想がもれてしまいます。ところがそれがユーモアに溢れているので嫌味にならないのです。
そして一見エラそうで強面に見えるその裏側には都会人ならではのシャイなところが見え隠れするのです。
彼の持論であるオーデイオ機械は見た目で決める、という意見にはとても賛成できます。
同じく番号や数字だけの羅列の商品名もやめてほしいという意見にも大賛成です。
車にだって86のように社内コードが車名になった珍しい例はありますが、それ以外は軽であれワンボックスであれ、みな立派なカタカナの名前がついているではないですか。
美しいデザインや名前は製品の売れ行きにとって重要です。だからこそ大メーカーでさえ知恵をしぼるというのに、芸術の世界に属するべきオーデイオがそんな大事なことに気を配らない原因は製品になりえるための成熟された市場さえ持っていないからかも知れません。
それにもしかすると昔の名器がほとんど記号だった頃のなごりかもある知れません。それにしてもその名器っていっても60年代くらいからずっとですから・・・・!
という風に寺島さんのオーデイオ本を散々褒めたのですが、まかり間違っても?このオーデイオ本を実用的に使おうとか自分の音を良くする参考にしようなどと考えたことはありません。
これらの本は実用本ではなくもっと高尚な娯楽本なのです。(マークトウエインの短編、私が農業新聞をいかに編集するかを参照のこと)
もちろんまだオーデイオ初心者だった読み始めた当時は相当影響もされ、彼のプロデユースしたCDなども買ってはみたのですが、こと音に関しては同じ好みでないことが判明したからです。
残念ながら最新作では少々テンションが落ちてきて、独自の路線を追求していたのが弱まっている感じもします。なんせ一番新しく購入したアンプが日本のハイエンドの王道【アキュフユーズ】なんですから、一作目から彼のオーデイオ本を読んでいた読者はうっちゃりをくらったように感じていることでしょう?
とはいえ3日と同じ音を出すことは無いと豪語している彼のことですから、また目新しい機材を購入して読者を楽しませてくれることは間違いないでしょう。
もちろん新しいオーデイオ本がでたら僕は真っ先に購入することは間違いありません。