昭和の風景はすでに懐かしいものとなっている。日常を描いて比類のない【小沼 丹】の本は面白い。 |
(上は今日の横浜の桜です。まだ風はつめたいのですが、日当たりのよい木はこんなに咲いています。ほかの木はまだほとんど咲いていませんでした。)
気に入った音楽や本に出会うのはまったくの偶然ということが多いのだが、これは本当に偶然なのだろうかそれとも何らかの必然があるのだろうか?
そんな事はどうでも良いのですが、どうして今まで知らなかったんだろうと残念に思うほどの素晴らしい音楽や本や映画に出会うと、実はこの世界には自分の知らない素晴らしいものがまだまだ山のように眠っていて、その出会いがこれらかもどんどん広がって行くような気がしてうれしくなります。
同時にこれではとても生きている時間が足りないのでは、とも思ってしまいます。
小沼 丹という大正生まれの作家を知ることになったのは偶然読んだ【中学生になるまでに読んでおきたい日本文学】というシリーズの中の一冊でした。
僕が読んだのは(おかしい話)という巻ですが、そこに収められている短編は室生犀星、内田百閒 夏目漱石 佐藤春夫 尾崎一雄 坂口安吾、森鴎外など大人でもあまり読んだこともない文豪がずらーっと並び、そればかりか落語の有名どころ人情噺の芝浜や酢豆腐まで収録されているという、そのタイトルからは想像できないようなすごい本なのです。
これが小学生のための本なのですから驚きます。こんな本を読む小学生がいたならぜひ一緒に感想などを語り合いたいものです。
その中の一話が小沼丹が書いた【カンチク先生】という話でした。他の作家は読んだことが無くても名前だけは聞いたことのある人ばかりだったのですが、この作家は知りませんでした。
ところがこの本の中で一番印象に残ったのがこの【カンチク先生】だったのです。
別にこれと言って特別な事件の起こる話ではありません、子供の頃に英語を教えてくれていたお爺さんの話です。ところが読み終わってみればこの【カンチク先生】どこかで会った人物のような気がしてくるから不思議です。
驚いたのはこのカンチク先生が登場するときに50歳の老人という表現があったことです。昭和のはじめには50歳はもう老人だったのです?そんなことはともかくとして、この話を読むと何も特別な事が起こるわけでもないのに、その登場人物と彼らが生きた時代がまるで僕自身の本当の記憶のように感じられてしまうのです。
その面白さにこ小沼 丹の小説や随筆を数冊読んでみました。
そこに登場する人物や犬や猫、トンボや蝉、飲み屋、鰻屋、病院、ほとんどがなにげのない話ですが、その風景がまるで空気感まで捉えた緻密なモノクロ写真のように目の前にありありと浮かんでくるのです。
なるほどうまい文章は優れた演奏が心地良いように読んでいてここちよい気持ちになります。
70年代に【本の雑誌】が注目され、そこにだれも挑んだこともない【文芸春秋完全読破】など、目新しい視線で見た日常の事を独特の軽妙な文章でつづり注目されたのが椎名誠でした。
その文章は昭和軽薄体と名付けられほど当時は特別なもので、その文章が綴る対象物は作家の半径100M以内にある日常的なものや出来事に限られていました。
これが実に新鮮に感じられたものです。ところが以前からあった私小説というジャンルだってほとんど半径100Mいないの事ばかりだったに違いありません。
椎名誠の文が新しいものに感じられたのは、私小説が真剣に内側に向かって行ったのに対し、外に向いて身近の出来事を面白おかしくとらえたという視点の変換にあるのではと思います。
この日常のくだらない物を面白おかしくとらえる視点というのは【東海林さだお】で完成の域に達し、気がついてみたら現在ではごくあたりまえの視点となっているではないですか?
それが一番よくわかるのがほとんど毎日TVに登場しているマツコだと思うのですが・・・舞台は本から始まってすでにTVにまで広がっていたのです。
ところがその日常の些細な事を面白がるということがここまで当りまえになってきてしまうと、今度はその対象があまりにも細分化されマニアックなものになって来ています。
ここまで来るとやり過ぎの感があり、当り前の日常だったはずのものがいつのまにか奇をてらった日常ではないものまで足を踏み入れることになってきます。食べ物の味付けがどんどん濃くなっていくのとそれはどこかでつながっているような気がします?
そんな風潮の中でこの小沼 丹を読んでみるとその何でもないようなさり気なさに一陣の風のような爽やかさを感じます。
同時に感じるのは懐かしさなのですが、それはどの小説であれ音楽でありその時代の空気というのが封印されてしまうからでしょうか?
それにしても何気ない出来事をこれだけ印象に残るように表現できるとは並大抵の筆力ではありません。
化学調味料無しの天然素材だけで作られた文章です。
どこまで実在の人物なのか、本当の出来事なのか、小説も随筆もどちらも本当のように感じられてしまいます。淡々とした中にありありと人物が浮き上がるこの雰囲気は、井伏鱒二とよーく似ていると思ったら弟子でした。
話は飛びますが井伏鱒二も好きな作家です。渋谷 実監督が映画化した【本日休診】も良い映画でした。あまり評価されていない作品のようなのがとても残念な気がします。同じ監督の【好人好日】も好きな映画でした。
いくつか小沼 丹の作品を読んでみると僕にはストーリーがあまり無いものの方が面白く感じられました。
犬や猫や蝉など生き物を巡る話など、その生き物を通じてそこに暮らす人や季節がありありと目の前に浮かびます。
それにくらべて小説的なストーリーがある話、たとえば恋する狂女に殺されてしまう男の話とか、浮気した妻とその相手に復讐を遂げる話などドラマチックになればなるほどリ逆にアリテイが薄くなってくる気がします。
この作家の得意とするのはやはり日常を淡々と描き、そこにあぶり出しのように世界が浮かび上がってくるような話ではないかと思うのですが、これは単に僕の好みがそうだからかも知れません。
それにしても彼が描いている日常というのがほんの少し前の時代にもかかわらず遥か昔の時代のように感じてしまうのはなぜでしょう。
年を重ねると時だけが自分の上をすっと通り過ぎていってしまい、気が付いていたら自分だけがそのままに残されていたような気になってしまいます。
小沼 丹の本をよむと遥か昔の世界が俄かに目の前に広がってくるような気がしてくるのです。
時代の空気を封じ込めたタイムマシーンのような小説【随筆】と言えるでしょう。
僕の知らないところに、こういう面白い本がまだまだ沢山眠っていると思うとなんとなく焦ってしまうのですが、もはや焦ってもしょうがないという気持ちも沸々とわいてくるのでした。