シェルブールの雨傘とロシュフォールの恋人たち ルグランと映画。(その2) |
(今回も引き続き新緑の東慶寺の写真です。しつこくてすみません!)
シェルブールの新しいアイデアに夢中になった二人はすでに完成した脚本と歌を持って映画会社に売り込みに行きます。
しかしそこで二人を待ち構えていたのは冷笑ばかりでした。
【田舎町の自動車修理工の男と傘やの娘の恋という地味なストーリー、しかもセリフ無しの全編歌なんて、いったい誰がそんなものを見に行くと言うのだ!】というのがこの企画を見たほとんどすべての人の意見でした。
初めての試みというのはいつも拒絶から始まるのです。さんざん断り続けられて1年がたち、彼らは吹雪の中でトランプの城を建てているいるような無力感に襲われ、この映画は実現できないのではないかと思い始めます。
ちょうどその頃映画に関係ないマスコミ界の大物に接触してみるという型破りなアイデアが浮かびます。
試してみると彼からの返事はこうでした【たまたま今映画を作ることに興味を持っている富豪の婦人がいる、彼女に話してみよう】、そして運転手つきの車でやってきた彼女はこの映画にGOサインを出すのです。ものごとはいつも思いもよらぬ方向から偶然に動き出すものです。
この映画の監督をしたジャック・ドウミも興味深い人物です。これだけ世界的に大ヒットした映画を作ったのにもかかわらず、その後話題になったのはロバと王女くらいで、あまり目立った活躍がありません。
もともと極めて繊細で自分のスタイルを曲げないいかにも芸術家タイプの人だったようです。
シェルブールの音楽が完成しオーケストラで伴奏を録音しそれに歌をかぶせていったのですが、ジャックが行ったそのミキシングを聞いたルグランは唖然としたそうです。
オーケストラは遥か霧の彼方の遠いところから響いているように聞こえたからです。ジャックにそれを言うと、彼は歌が良く聞こえるためにはそれでいいのだと引き下がりません。
そこでルグランは一計を案じ、当時たいへん有名だった録音技師に依頼しそれを聞いてもらいます。
その録音技師の感想はこうでした。【これはすごい!音楽のないミュージカルだ、いったいオーケストラはどこにいったんだい!】ジャックはこれを聞いてやっと彼に録音の監修をまかせることに同意したのでした。
シェルブールの雨傘は配給会社によるポスター展開もごくわずかだったにもかかわらず公開と同時に満員となりました。
この成功はルイデュリック賞の受賞もあり数カ月間つづき、春にはカンヌ映画祭でパルム・ドール賞も受賞することにります。その受賞式の時です。二人は舞台に上がるために立ち上がり、その時ジャックはルグランにこう言ったのです。「舞台にはあがるな、あがるのは監督一人だけでいい!」こんな気難しいこともあるジャックでしたが、二人の友情はこんな事では壊れずこれ以降も長く続きます。
二人がどんなに仲が良かったかという証拠がシェルブールの雨傘の映画の中にも残っています。それは最後のガソリンスタンドの場面でお互いに子供を連れた主人公が偶然に出会う場面で、その主人公二人が連れている子供をジャックとルグランの子供が演じていたことです。この二人の子供が登場しているおかげでルグランはいつでも幼い頃の自分たちの子供にそこで出会う事が出来ると言っています。
さてシェルブールの世界的な成功(フランスの片田舎の労働者と傘やの娘の恋物語がなぜ日本やアジアの国でも受けたのかいまだにわからないそうですが)を受け2作目を作るのにはたいへんなエネルギーが必要となります。いままで彼らには見向きもしなかった人々から映画の製作以来が山ほど来るのを冷たく断るのがまず手始めの仕事でした。それはとても快感だったに違いありません。
そしてジャックがあるアイデアを出します。それは彼自身の方法で描くアメリカミュージカルへのオマージュというものでした。
なるほどそれでロシュフォールがなんとなくアメリカミュージカル風だった訳がわかるというものです。
たまたまアメリカのミュージカルの象徴ともいえるジーンケリーとルグランが一度仕事をしたことがあったので、彼がヨーロッパに来ている時に出演を頼みにいくと、企画そのものには賛成してくれたのですがその返事はこうでした。
「僕はこのあとまだ2本映画を撮らなくてはならない、もしほんとに出演してほしいなら2年待ってほしいね!」あの映画であんなに楽しそうに歌ったり踊ったりしている彼のセリフとは信じられません!。
それにもめげず二人は脚本を練り直し、16曲の歌と15のバレエシーンを作り出して行きます。二人で曲を決めるのに一曲につき20回ときには40回も異なるメロデイの提案をしていたそうです。
そして登場人物の一人マクソンヌの歌ではルグラン自身がまったく気に入らなかったテーマをジャックが選ぶことになります。
ルグランはその曲を初級のピアノレッスンみたいだと気にいらなかったのですが、後にこの曲に英語の歌詞が付けられてヒットし、いまだに演奏しつづけられているスタンダードの名曲となったのです。
その曲こそが「YOU MUST BELIEVE IN SPRING」です。天才にも何がヒットするまでは解らないものなのです。この曲の演奏の一押しはビル・エバンスによるものですが、最近の歌手のなかではヨス・ヴァン・ビースト・トリオの伴奏によるマリエル・コーマンの歌がなかなか素直で気にいっています。
ジャックはその後アメリカに移りすんだルグランを追ってカリフォルニアにやってきます。しかしそこで当時流行していたヒッピームーヴメントにすっかり影響されてしまいます。
シェルブールの雨傘の監督であったことはさらに新しいミュージカルを作ることの出来る魔法の呪文であったのにもかかわらず結局彼はそれを使おうとはしなかったのです。
そしてそれとは正反対の労働者と経営者の闘争を描いた血と暴力の映画とか、ベトナムへ出征する青年の内心を描いた映画などロマンテイックとは正反対の作品を撮ることになります。
ジャックの才能を知っているルグランはなんとか軌道を変えようとしましたが、それをジャックが聞きいれてくれることはありませんでした。
結果としてそれらの作品は彼を映画会から追い出すことになるのでした。自由に映画を撮れないジャックが最後には仕事に困って日本映画のベルサイユのバラの監督をしていたなんて、果たして何人の人が知っているでしょう。
瞬くまに脚光を浴び、そしてその後は不当に見放されたいえるジャックは1990年10月にこの世を去ります。それはいまだに輝く星の下で活躍しているルグランに較べるとあまりに寂しい人生だったように思えます。
この映画はアメリカのミュージカルへのオマージュたるものですから、もちろんアメリカ市場を強く意識して作られました。
そのためこの映画にはフランス語版と英語版が存在していたのです。そんなことは今まで誰も知りませんでした。すべてのセリフと歌を英語で作り直すのですから大変な労力です。
しかしこの英語バージョンは陽の目を見ることなく永遠にお倉入りとなってしまいます。
この映画を見たアメリカの映画配給会社がこの映画はあまりにもヨーロッパ的だと判断したからです。
公開もアートシアター系のわずかな映画館のみでアメリカ市場ではあまり歓迎されない映画となってしまいました。アメリカ向けに作った映画がアメリカではあたらない、これも不思議な話です。もちろんヨーロッパや日本ではヒット作となりました。
ロシュフォールの恋人たちについてルグラン自身は以下のように語っています。
「これはまさに太陽の光のような作品であり、ジャックと私たち二人が生みだした独創的で、もっとも楽天的な作品なのです」まさにその通りに感じます。
楽天的な明るさというのはこの映画を見た人がだれもが感じることでしょう。
そして僕がそれが奇跡的な事だと思うのは、たとえどれだけ沢山の映画があろうとも、これだけ明るく楽しい恋をこれほど美しく描いた映画を他には知らないからです。