気が付いて見ると最近一番良く聞いているCDと言えば桂米朝の【落語】でした。 |
忙しいはずの師走に入りましたが寒さは身に染みて感じるものの忙しさのほうはさほど感じなくなる年齢になりました。ここのところ振り返って見るとなんと一番聞いているのが【落語】のCDでした。
そもそも僕はそれほどの落語好きではなかったし、落語の事について何か書くほどの知識もまったく持っていません。まだ家にTVが無かったころラジオで落語をやっているのを母親と聞いていた記憶があります。そのためか【まんじゅう怖い】などは小学生のころから知っていました。それがどうして今頃になって・・・と考えてみると、そもそもの始まりは立川志の輔でした。
立川志の輔と聞くとTVでこぶしで手のひらを叩いてガッテンなどとやっているただのしょうもない親父に見えるのですが、ところがどっこい落語をやらすとTVからは想像できないほど別人のようにすごい人なのです。
彼の落語は映画化されていてあり、その映画をたまたま見たのが最初のきっかけだったかもしれません。題名は【歓喜の歌】です。その題名通り【ベートーベンの交響曲第9番、歓喜の歌】のある公共施設での公演のダブルブッキングを巡る話をコメデイにしたものです。これがなかなか生活感と人情味にあふれた良く出来た映画だったので、いったい落語ではどうなっているのかと聞いて見たところ、これがまったく落語の忠実な映画化だったというのがわかりました。映画になるほど志の輔の落語って有名でかつ面白い物なんだなとその時思ったのでした。(落語の映画化といえばフランキー堺が出演した死神がありましたが、あちらは誰でも知っている古典落語の世界、こちらは新作落語の映画化ですから訳が違います)
さて落語のCDといっても輸入盤のCDが1000円台、安い物は1000円を切るものもあるのが当たり前の時代に、日本盤は(もちろん落語も)2000円以上もするのです。ジョブズさんが一曲250円程度で音楽を購入できるようにして以来までなかったほど安く音楽を手にいれられる時代になりました。しかし落語はそうはいきません。と思ってアマゾンを調べて見ると一話300円でダウンロードできる落語家が一人だけいました。三遊亭白鳥です。この人は型破りな新作落語をやるかたでちょっとせわしないのですが滅法面白いのは確かです。彼だけ一話毎にダウンロードできるとは今一番人気があるのかも知れません。こんどダウンロードしてみよう!と思ったのですがそういえば僕のツールは未だにガラ携帯だけでした。
そんなわけで一般的?な落語家の方はCDで聴くしかありません。そしていつも通っている図書館には幸い落語のCDが沢山あるのです。そこで立川志の輔を借りてみてその面白さにびっくりしたのです。新作落語の独創性とそのエネルギッシュな語り口は独断場で、なかでも【緑の窓口】はチョー傑作です。良く出来た推理小説のような見事な落ちで思わずうなってしまいます。
新作が面白いだけでなく古典をやらせてもすごいのがただのガッテンおじさんではない証拠。一度彼の落語を生で聴いたことがあるのですが、その時かけられた月形半平太を演じた役者の話など、その話に出てくる舞台が今でも目の前に浮かんでくるほどリアリテイがありかつ迫力があるものでした。もっともその実力は誰でも認めるところで人気のある志の輔のチケットは簡単には購入できないことが多いようです。新作といえば忘れられないのが桂文珍の病院に来る老婆たちを描いた【老婆の休日】です。その面白さは老人落語?の不朽の名作といえるでしょう!
そんな感じで志の輔を筆頭として落語のCDを聞いていたのですが志の輔のCDは数が少ないのです。僕が行く図書館で一番ずらーっと並んでいるのが桂米朝のCDでした。他の有名落語家を抜いて圧倒的に多いのです。その数約50枚ほど、クラシックやポピュラーの演奏者といえども一人で60種類のアルバムを出している人はそうはいません!しかし上方落語です。もともと横浜そだちで東京の会社に通っていた僕は大阪よりも東京に親しみを持っています。あの切れの良い江戸弁でやるから落語が粋で面白いのであって関西弁でねちょねちょと落語をやられたらちょっとね・・・とずっと思っていたのです。
ところがふとした出来心?で桂米朝のCDを一枚借りてみるととたんにその魅力にはまってしまったのです。図書館にある米朝のCDをすべて聞いてしまった今となっては東京の落語より好きになってしまい関西落語特有のバックミュージク?が沢山はいる落語でないと寂しく感じるほどになってしまったのですから困ったものです。
米朝といえば印象的だったのが彼の息子が桂子米朝から米朝ではなく米團治を襲名したときの襲名披露です。さすがに親ばかといえども米朝を襲名させることはできなかったようです。僕はたまたまこれをTVで見たのですが、この息子の落語を聞いてあまりの落差に驚きました。親があまりにも偉大な才能を持っているとその息子は大変だなとつくづく思ったのでした。後で調べてみると落語会の長嶋の息子と呼ばれていたそうです!他の落語家による襲名のお祝いも、あまりほめる事が出来ず、そのうち上手になるだろうからと言った苦し紛れの紹介が多かったのがつらかったです。どの世界でもそうですが二代続けて偉大な才能が生まれることは稀です、そのように比較される時点で親の才能が確かだったことがいっそ際立つだけなのですから大変です。その点我が家では精神的圧迫などは皆無だったことでしょう。
さて桂米朝の特徴といえばなによりも聞きやすいことがあります。志の輔などは師匠の談志とともにガラガラ声なのですが米朝は声が良く実になめらかで発音がはっきりしています。関西弁といえどもむしろ東京の落語よりさっぱりと歯切れよく聞こえるのが不思議です。もう一つは品が良いことです、まあこの辺りは人によって感じ方が違うでしょうがこれも関西というイメージとはちょと違います。
そして聞くたびに驚くのが登場人物がそれぞれまるで実在の人物のように生き生きと感じられることです。たとえ登場人物が何人出てこようとその各人がそれぞれ別の人のように聞こえます。それはまるで舞台を見ているようです。人間国宝にまでなっている人に対して何をいまさらなのでしょうが、ほんとにそのリアルさには目を見張ってしまうのです。それにしても関西が上品なんて!今までの常識が見事に覆えされたのです【失礼!】。
さてそれで、どんな落語が好きなの?と聞かれると実はしっかりしたストーリーのあるものより、あまりストーリーのないどこかとぼけてのんびりしたものが好きです。例えば義太夫の練習に数人で町を巡り、それに参加したド下手な3人の描写がのんびりしていて絶妙な【軒づけ】、なかでもうなぎの茶漬けが出るのをまだかまだかと待ちわびる人が大好きです。米朝が好きになったのもこの話を聞いてからだと思います。
お父さんと息子が天神さまにお参りする【初天神】このお父さんまるで自分のことのように思えてしまいます。【やっぱりおとうちゃん連れてくるんじゃなかった】と子供に言われるオチも好きです。もっともこの話は米朝では聞いたことが無い気もするのですけど。他にも【壺算】【始末の極意】【阿弥陀池】【京の茶漬け】などなど好きな話が多いのです。
【京の茶ずけ】は帰り際で必ず出る【ぶぶづけでもどうどす!】という決まり文句、これはどうやら早く帰って欲しいという事らしいのですが、これに怒った大阪人がどうしても本当にぶぶづけを食べてやろうとするだけの話で、まったく暇なやつもいるものです。ベストセラーになっている本【京都嫌い】を読んでからこの話を聞くとさらに面白く感じました。
宿屋を舞台にしたお話もなぜか好きです。宿屋に泊ったお礼に書いた雀が抜け出る【ぬけ雀】これと似たはなしで彫ったねずみが抜け出る【ねずみ】も好きですが、こちらは米朝ではなく志の輔で聞いた話でした。アガサ・クリステイもびっくりのどんでん返しのラストのある【宿屋仇】、宿屋に泊った貧乏人が金持ちのふりをしてやむなく買わされた富くじがあたってしまう【宿屋の富】これはラストで富くじが当たった本人や宿屋の主人の喜ぶありさまが何度聞いても実に愉快です。うーんしかしこちらも米朝では聞いていないかもしれません。
実は米朝でどうしてももう一度聞いて見たい話があるのですが、題名が解らずいまだに見つけることが出来ないものがあります。それは皆が冬の寒いさなかに炬燵の前で集まって怪談話をする話なのですが、女の幽霊につけられてそれを待ち伏せして捕まえて川に放り込んでしまうという話が出てきます。実はこれが夢の話でして、これがしょうもないオチで終わるのですが、そのあまりの下らなさ加減が好きなのです。いったい何と言う題の話なのかご存知の方がいたらぜひ教えて欲しい物です。
このようにどうなるかと固唾をのんで聞いていると最後は夢だったと簡単にかたずけられてしまう話も結構たくさんあって、【夢金】のように半分深刻でも半分とぼけた主人公の話なら良いのですが【鼠穴】のように真面目な主人公が悲惨な目に合う話を真剣に聞いていると最後が【はい夢でした】で簡単に片づけられるとなんだか中途半端な気分になってしまいます。
とあまり知識もないのについ落語の話など書いてしまいましたが聞くたびに思うのは【落語】という芸の凄さです。一口に落語といってものんびりしたコメデイから、涙を誘う人情話までそのバリエーションは多彩です。それを一人の人間が演じるというのは世界でも例のないような芸だと思われます。
そして江戸のものだと思っていた落語ですが意外にも関西発祥の話が沢山あることもわかりました。それに米朝を聞くまでは関西の落語なんて面白いはずが無いと思い込んでいたのですから恥ずかしい。こんなに初めてのものが多いのですから、そのうち苦手なワーグナーなども絶賛するようになるかもしれません?
関西のお笑いは吉本の漫才やコントばかりではないぞ!と若いやつらに言ってやりたいと思っていたら実は今若者の間で江戸時代以来の大の落語ブームなのだそうです。首都圏の落語の会は10年前とくらべれば約100倍の1000回ほどもあるそうで、しかもどれも長蛇の列となっているそうなのですから驚きです。
バーチャルの世界があふれている現代において生身の人間が演じる舞台に若者が集まるというのもなにか理由がありそうです。音楽のライブだって昔は武道館を満員にするのが勲章のようだったのが、今ではデビューして数か月で何万人も入る球場を満杯にしてしまうほど盛んなのです。まさにライブ全盛の時代です。若者の間に落語がブームになるのもバーチャル空間には存在しない生身の人間のエネルギーのようなものを体が求めているからかも知れません。落語ももっともっとブームになってほしいものです。それにしてもクラシックの演奏会はいまだに老人ばかりなのはなぜでしょうね?