60年代の車が好きな人、もしくは60年代に車好きだった人は、たぶん今の車のデザインを見て違和感を感じるのではないでしょうか?
同じことはいつのまにか美術からアートという呼び名に変わった芸術の分野、またズンズンと腹にひびくリズムばかりが強調される音楽の世界にも言えるような気がするのです。
確かにそこには一目でわかるアニメのような【わかりやすいかっこよさ】があることは確かです。
しかし僕がそこに共通して感じてしまうのは(派手さ)だったり、(どきつさ)だったりするのです。
ところがその(派手)さとか(どぎつさ)というのが、現代の風潮ではどうやら好まれているようで、そういうデザインの車が一番の人気で売れ筋というのですから、その感覚のずれは半端なものではありません。
トヨタのSUV CH-Rが登場したときその姿を見て驚きました。車のデザインもついにここまできたか!といった感じです。
それはまるで最近のアクションSF映画やヒーローものに登場するダイキャストで出来た変身するおもちゃのように見えたのです。
このままの姿で立派にSF映画に登場できるばかりか、車から降りてくる人間がぴちぴちのボデイ―スーツにマントをはおっていればとても良く似合うではないですか?。
ボデイはやたら過剰なラインで飾り立てられ、いかにも押し出しの強いフロントマスクとともにまるで戦闘態勢にはいったロボットのように攻撃的に見えます。その姿は、巷ではおおいに受けたようで、その後トップセールスを記録しているのですから、これをかっこよいと思う人のほうが多いのでしょう。
ほかにもワンボックスの王様、アルファードやエルグランドの押し出しの強い顔なんて、まるでバックスバニーを追いかける悪者が乗っている車として登場しても少しもおかしくないような面構えに見えてしまいますし、新しいプリウスだって鉄腕アトムの漫画に出てくるような昔想像した未来の車のような奇妙な形に見えます。
売れている車に共通しているのはどれもSFアニメやゲームに登場してもおかしくないような風貌なのです。
そう感じてしまう僕と世の中の間には、深い断絶があることは間違いないのですが、(たんに時代の感性に追いついていけないだけ?)その理由をたんに自分が年を取ったからという一言で片づけてしまうのはなんだか悔しい気もします。
というのも、美しさを感じ取る力の中には、はるか昔から延々と積み上げられてきた、なにか普遍的なものが存在しているように思えるからです。
たとえばベーシックカーの世界代表のようなフォルクスワーゲン・ゴルフを見てみましょう。
ジウジアーロがデザインした初代は今のポロよりずっと小さくシンプルに見えます。それと比べれば現代のゴルフは3倍も大きく立派で、もはやラクジュリーカーのようです。
しかしゴルフにまだ救いがあるのはそのデザインにデザイナーの個性が表現されていることにあります。
そしてその根底にはヨーロッパの伝統とそこから生まれた美意識が間違いなく残っているのです。(というのはVWユーザーである僕の単なる思い込みかも知れません!)
ともあれ、そう考えると車のデザインには文化とか個人の力というものが深く関わっている気がするのです。
たとえば最近の映画ではストーリーを考えるのに合議制で、さまざまな人間が意見を出してより皆が面白いというストーリーを作り出していくそうです。確かにそれは面白くはなるでしょうが、失われるものも大きい気がします。
そこには【そんなことは問題ではない、ただ売れればいいんだ!】という市場優先主義がみえみえです。市場こそすべてというわけです。(とはいえ歴史を見てみても大衆が望んだものが正しかったことはほとんど無いのですけど)最近の車を見るとまったく同じような感じを受けてしまいます。
(残念ながら現代美術の世界もそんな風になってきている気がいます。そこには一瞬で理解できる【わかりやすいかっこよさ】ばかりが求められているのです。)
沢山の人が寄ってたかってこのラインを入れたほうがかっこよいとか、意見を出しあえば、ラインは必然的に過剰に複雑になり、そこには個人の美意識など残るはずもありません。
としょうもないことを書いてしまうのも年をとったせいかもしれません。まったく年を取ると、昔のことばかり良かったといいがちです。
それが単なる繰り言であれば良いのですが、そこに一片の真実が含まれているように思い込んでしまうのもまた年よりの常です。
ほんらい美意識というもの時代が決めるものなのでしょう。
トヨタのCH-Rに乗っているあなた!ごめんなさい、この車は現代においては間違いなくかっこよい車なのです。美しいとは思いませんが・・・。