冬に聞くお話。【よってたかって新春落語】を聞いてきました。 |
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2018年 02月 02日
去年一年間一番数多く聞いたCDは何かと言うと【落語】でした。
かたっぱしから聞いたおかげで、初心者ながら一応有名なお話はひととおり頭の中に入ってきた気がします。
落語家の名前のほうもなんとなく頭にはいってきたようで、僕が聞いていて面白いと思う噺家はやっぱり誰が聞いても面白いと思うらしく人気が高いようです。 (今回の写真はぶらぶらしている時に撮った冬の景色です。古民家に雪というのが、とても良く似合っていたのに驚きました) 最近の落語ブームで、そういう人気のある人はすぐ売り切れてしまうので、まずチケットを買うのが大変だし面倒です。 確かに落語はライブに限るのですけど、実際に生で聴いてみると2時間くらいの間、じっと神経を集中して聞き入っているので、たまにうとうとしてしまたりするクラシックのコンサート以上に疲れるのです。 そんな事もあり、ごくたまにしか生を聞きにいくことはないのですが、年末と年始で最近人気のある落語家を聞くことができました。 喬太郎、白酒に続いて今回は白鳥、兼好、三三、という人気ものが出演する新春落語会です。 なかでもテンションの高い白鳥の新作を生で聞くことが出来ると言うのは楽しみでした。 クラシックのコンサートというのが有名音楽家の作曲した古典落語の世界だとすると、新作落語はジャズを聞くようなスリリングな面白さがあります。 新作落語は古典落語ほどCD化されていないようですし、どんどん新しい噺が生まれてきますから、これは生で聞くしかありません。 もう一つ生だと面白いのがまくらです。時事ネタとか前の落語家のことや、その場所のネタが入ったりするので、こちらも実際に聞きに行かないと、その面白さがなかなかわかりません。 というわけで僕が生で興味があるのは(まくら)と(新作)という、およそ落語ファンからは馬鹿にされそうなものです。 とはいえ僕が一番好きな落語家は新作もやらず(まくら)の少ない米朝なのですから不思議です。(残念ながら、すでに亡くなっているので、もはや生で聞くことはできません。現在も米朝という名前の噺家もいるそうですが、これは別物です) 関西人なのにあくが少なく、さらっとして軽妙な語り口が大好きです。なによりもすんなりと耳に入ってくるのも格別です。 さて新作といえば高いテンションでぐいぐいと引っ張って行く、コルトレーンのソプラノサックスみたいなのが(白鳥)です。 今回は前半は女性落語家の【粋歌(すいか)】と、歩いていたら【来場所も頑張ってね!】と声をかけられたという立派な体格の持ち主の【きく麿】そして僕の好きな【白鳥】の3人が新作で勝負です。 新作というのは、クラシックでいうなら現代音楽と同じで、内容よりも気合で勝負みたいなところがあるのですが、意外にもテクニックを必要とします。そして一番必要なのは体力、気力かも知れません。 不利なのはじっくりと語られる古典落語は聞いているだけで、その場の風景が浮かんでくるのに較べて、現代的スピードで進まざるを得ない新作は、風景が印象に残りにくいことです。 女性落語家にたいしてはなんとなく偏見があったのですが、【粋歌(すいか)】は転職ねたに、銀座の高級宝石店と秋田の(なまはげ)を絡ませるという、良く考えられたネタで声も身振りも大きくて大迫力、女性落語家に対する偏見を見事になくしてくれました。 【きく麿】も善戦です。 さて白鳥です。聞いてはいましたが、初めて実物を見るアデイダス3本線が入って、日本航空のマークのような紋の入ったスポーツウエア―のように見える羽織姿はやはり強烈です。 見るからに戦う姿勢を打ち出しているのが白鳥の偉いところ?話にはいってもその姿勢は貫かれます。見かけもすごいですが、話のエネルギー感もすごいです。さすがに彼ならではの、高いテンションでグイグイと引っ張ってきます。 今回のネタはなんと皇室ものです! マコさまが同学年の学生と付き合っているというフィクションを軸に、皇室を守る秘密組織の登場など相変わらずの奇想天外なストーリーです。 こんな話やっていいの?というきわどさが白鳥の信条です。 子供のころ親に隠れてお年玉で買ったアイスクリームを、雪の降る橋の下でむさぼり食って凍死しそうになったという姿勢が、いまでもいきている??のですから立派です。 彼の新作では登場人物もいままでの落語には絶対出てこないような、動物のやくざとか、北朝鮮の工作員とか、清龍刀をかかえた中国人の親父とかアヴァンギャルドぶりが際立っています。 白鳥の新作も面白いのですが、昔の古典を新作風に作り替えた噺もなかなか良くできています。 特に売れない落語家が主人公になったりすると実体験だけに?笑だけでもなく乾いたアイロニーも出てくるのが特徴です。 そればかりか古典をやってもかなりのものだと僕は思います。 なかでも僕の好きな【初天神】は独自の工夫があって面白いのですが、CDでは団子屋のところで終わってしまうのが、尻切れトンボで残念です。 なんといっても初天神は最後に親父が子供そっちのけで、むちゅうになって凧あげるところが好きなのです。 もし実際の口座でこれを最後まで演じてくれるような機会があったらぜひ聞いて見たいものです。 後半は古典です。 1月の終わりとはいえ、いちおう新春落語と銘打っているからには、新春風の出し物かと思えばさにあらず、兼好はあまり季節感のない、さりげない噺、【猫の茶碗】ときました。 この話は純朴なはずの田舎者に、こすからいはずの都会の商売人が見事に騙されてしまうという逆転が面白い噺です。 どちらというと茶店の主人のいやらしさが出てしまうことがあるのですが、兼好はこの話を汗もかかずに(汗をかくような話ではないのですが)さらっと上手く聞かせてくれました。 とりは三三(さんざ)です。こちらは意外にも落語のなかでも珍しい、渋くて暗い噺【鰍沢】ときました。 これは【お材木(お題目)に救われました】というおちだけが落語で、ここに至るまでの話は随分と深刻かつドラマチックなので、最後にこのダジャレの下げを聞くとおもわず(がくっ!)と来てしまいます。 雪景色が冬らしいお話ですが、まったく新春のおめでたいムードとは裏腹です。 つい先日、落語のCDとしては珍しく音にこだわったという落語CDで入船亭扇辰の【鰍沢】を聞いたばかりでした。 確かに録音の良いCDでしたが、この人の話っぷりは、演技しすぎというか、くどいというか、僕には合いません。 特にこういう悲惨な状況の出てくる話は、くどいのはいけません。 それにくらべるとさすがに三三は上手いです。特に女性がいいです。元吉原のおいらんだったというおかみなど、色気や雰囲気が良く出ていました。 とはいえ、たまにしか生を聞きに行かない僕としては、せっかく新春というタイトルなのですから、もちっと景気のよい噺をやってもらいたかったなと思ったのでした。 兼好には、軽い噺で正月らしい【御慶】とか、寒い冬の夜の情景が眼い浮かぶような【うどん屋】など、三三には雪景色たっぷりの【夢金】とか、難しいと言われる【変わり目】とか・・まあこんな勝手を言いたい放題なのですから、お客というのは勝手なものですな。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2018-02-02 10:24
| おもしろ音楽
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2018年 01月 10日
ひさびさに僕にクラシック音楽のおもしろさを教えてくれたIさんのお宅を訪ねました。
相変わらず絵画に囲まれた部屋には、どっしりとしたオールドタンノイが鎮座して普通の一般家庭にはありえない、美術館のような静謐な雰囲気を醸し出しています。 例によって所定のカッシーナのソファに座らせていただき、Iさんが順番に交換してくれるレコードを聞くという贅沢きわまる時間を過ごすことが出来ます。 Iさんが昔から集めているレコードは、これから毎日一枚づつ聞いても寿命の方が先に来てしまうほど膨大な数なのですが、中でも一番充実しているのが声楽です。 バッハのカンタータなどは全曲揃っているのはもちろん、ミサ曲、声楽曲、オペラ、など様々な声楽の名演がぎっしりと棚を埋めています。それでも情熱は途絶えることなく、まだまだレコードを買い続けているのですから驚きです。 今回はここ数年に買い求めた比較的新しいオペラのレコードの中から僕の希望でモーツアルトのオペラ、(ドンジョバンニ)と(コシファントッテ)を聞かせてもらいました。 ドンジョバンニはアーノンクールの指揮で今ではバリトンの第一人者になってしまったトーマス・ハンプソンがドンジョバンニを歌うもので、もちろんCDではなくLPレコードです。 トーマス・ハンプソンは僕には馴染の深い歌手で、マーラーの大地の歌を初め、セベリアの理髪師は2度も聞きに行ったことがあります。 コシファントッテは初めて見た本物のオペラでした。それいらい好きになり3回ほどこのオペラを見に行きました。 モーツアルトのオペラの中でも重唱が多いのが特徴で、ふざけた内容とは裏腹に、とてつもなく美しい歌がたくさんはいっています。 こちらはスウエーデンにあるバロック時代の美しい建物がそのまま残っているドロットニングホルム宮廷歌劇場の演奏です。当然ながらオリジナル楽器とビブラートの少ないバロック唱法で歌われています。 実は僕もこのドロットニングホルム歌劇場の演奏するフィガロの結婚のCDを持っていますが、とても気に入っています。このコシファンを聞くのは初めてでしたが、こちらも欲しくなりました。 いかにもクラシックな雰囲気のタンノイGRF(モニターレッド)と真空管のアンプにアナログ・レコードという組み合わせから想像するのは柔らかくてエッジのとれた穏やかな音です。 ところがIさんの音はそれとはまるで正反対の輪郭のはっきりしたエネルギッシュな音なのです。 僕の耳にはオーケストラの大きく盛り上がるところではヴァイオリンの音色がきつく感じるほどですが、それは我が家の音が柔らかすぎるかもしれません。 音楽が静かになってオーボエやフルートがメロデイを奏でるところなどは静寂の中からくっきりと音が浮き上がって来ますし、歌では歌手の息遣いが聞こえるようなリアリテイがあります。 僕には演奏の良し悪しは良くわかりませんが、この二つのアルバムを聞いてモーツアルトのオペラの素晴らしさに改めて感動しました。 続いて今まで聞いたことのないあたら新しめのLPでマーラーのリュッケルトの歌曲、リフキン指揮のバッハのカンタータなどの歌ものを楽しませてもらいました。 音量も我が家と比べられないほど大きいので迫力があります。 この雄大な音で久しぶりに交響曲も聞いて見たくなりました。 そこでブラームスの交響曲を所望したところIさんが取り出して来たのが数枚のカラヤンのブラームスのLPでした。 カラヤンといえば僕がクラシックを積極的に聴きはじめた頃は、巷では随分と評価が低かったような気がします。曰く綺麗なだけで内容がない??華麗なだけで思想がない??などというように、カラヤンはしろーと向き?みたいな風潮があったようです。 とはいえ僕の周りのクラシック好きの方たちはその頃でも、カラヤンの弦の統率力はものすごいと評価していました。 Iさんによるとそのカラヤンのレコードが最近随分高くなっているというのです。 特に後期に入れたブラームスは人気が高く下の写真の1番などなかなか手に入らなくなっているそうです。 カラヤンはブラームスの交響曲をなんども録音しているそうで、Iさんのところにも赤いカーデイガンを首に巻いた写真のシリーズと、スターウオーズを思わせるようなストライプの模様が入ったジャケットのもの、そしてデジタル録音のものと3種類が揃っていました。 その聴きくらべまでする時間がなかったので、デジタル録音の3番を聞かせてもらいました。 大音量で鳴る交響曲はやはり迫力があります。 特に低音の豊かな響は我が家のスピーカーでは望みえない深い音です。 久々に聞くブラームスはいかにもガッチリしていて雄大に響き、窓から見える赤く染まって暮れていく空によく似合っているように感じたのでした。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2018-01-10 19:56
| おもしろ音楽
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2018年 01月 03日
最近良く聴いているアルバムにキリテ・カナワがイギリス民謡を集めて歌っている(イギリス民謡集)という1983年に録音されたアルバムがあります。 オーケストラの伴奏による歌曲というのが好きな僕にはとても気持ち良く聴くことが出来るアルバムです。 イギリス民謡集と日本人ならの気軽さで書いてしまいましたが、実はそれはイギリス民謡と一言でくくれるものではなく、正確にはアイルランド民謡だったり、スコットランド民謡だったり、イングランド民謡だったり、ウエールズ民謡だったりするのです。(ああややこしい!) そんな事どうでもいいじゃないと言ってしまっても良いのですけど、紛争状態にあるアイルランドのカトリックの娘とプロテスタントの男の子が恋に落ちてしまうという、当地では教科書にも乗っているくらい有名?な大河小説を読んでしまったので、そう気楽にそうは言えなくなってきます。 小さな島国アイルランドの中でさえ血で血を洗うような確執があったのです。そう簡単に一言で片づけるわけにもいきません。 現在では公平を期すためイギリス民謡とは呼ばず(FOLK SONG OF BRITISH ISELS)と呼ばれているそうですが、そんなことはともかく、このイギリス民謡と呼ばれている音楽は我が国の音楽に深く根付いているようなのです。 (今回は面倒なのでイギリス民謡で統一させていただいてます) 西洋音楽が日本にどっと流れ込んできたのは明治時代になってからですが、まずそれは西洋を真似て作った軍隊で軍歌として使われたのだそうで、日本で最初にできた軍歌はイギリス民謡に日本語の歌詞をつけたものだったのです! それから西洋音楽はどんどんと日本に根をおろして行きます。 明治の末には三越が少年音楽隊という小規模のオーケストラを作りました。 わざわざこの音楽隊をめあてに沢山の人がやってきたのです。一日中演奏していたというのですから人気の高さがわかります。それほど西洋音楽は一般人にとって人気のあるものになっていたのです。 この成功を受け大阪の三越を初め白木屋の少女音楽隊、などさまざまな音楽隊が作られ、現在の東京フィルハーモニー管弦楽団も、その大元は伊東呉服店の音楽隊がはじまりだというのですから驚きます。 大正時代になってからも西洋音楽の人気は高く、浅草オペラなんてただの演芸場かと思っいたのですが、カルメンとか椿姫とかの本格的なオペラやオフェンバッハの喜歌劇などを上演して大人気をはくしていたというのですから、当時の人は現代人よりよほどオペラのアリアに詳しかったはずです。 さてイギリス民謡はそんな流れに以外にも唱歌として日本語の歌詞を付けられて普及していきました。 いま思い出してみても、まるでもとから日本の歌のようにメロデイが口をついて出る(蛍の光)を初め、庭の千草、埴生の宿、故郷の空、など沢山あります。 日本語の歌詞ではありませんが、ダニーボーイ、グリーン・スリーブス、サイモンとガーファンクルでヒットしたスカボロフェアーなどもそうです。それほど日本人には親しいメロデイなのです。 だからと言って僕が格別イギリス民謡が好きかというと、そんな事はありません。 クラシックのアルバムで初めてイギリス民謡を聞いたのはジョン・サザーランドの歌を集めたベスト盤、2枚組のLPアルバムだったと思います。 この中でオペラのアリアに混じって歌われていた(The Last Rose)と(Home Sweet Home)がとても良かったのです。なるほどイギリス民謡も良い物だなと、その時初めて思ったのです。その記憶があったのでこのキリテカナワのアルバムを買ったのだと思います。 キリテカナワはニュージーランドの出身でマオリ族の血を引くと言うオペラ歌手には珍しい人です。 その彼女がイギリス民謡を歌って、それを日本人が聞くというなかなか珍しい図式なのですが、気がつくと共通点があることに気づきました。 それはこの3つの地域がどれも島国だと言うことです。たんなる偶然かも知れませんがなんだかおもしろいことです。 このアルバムは流麗なオーケストラをバックに歌われるキリテ・カナワの歌声が、とても伸び伸びとしていて、聞いていて心なごむものです。 【庭の千草】を始め、夕空はれて秋風ふくと歌われる【故郷の空】、グリーンスリーブス、ダニーボーイなどは聞いているとなんだかとても懐かしくなります。 それ以外の曲も、どこかで聞いたことのあるような気がする、親しみやすい曲ばかりです。 伴奏のオーケストラの編曲も誰の編曲かわかりませんが、すっきりとしていて嫌味がなく流麗かつスムーズに彼女の歌を盛り上げます。やっぱり僕はオーケストラ伴奏つきの歌が好きなようです。 お正月はお正月で、なんだか気分があわただしいので、じっくりと聞かなければならないような重い音楽よりも、こう言う気楽に聞くことのできる音楽がぴったりのようです。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2018-01-03 09:26
| おもしろ音楽
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2017年 12月 31日
年末をいえば、なんとなく気ぜわしいのですが、良く考えてみると、これと言って今どうしてもやらなければならない事がそう多いわけでもなく、気がつくとぼーっとしていたりもします。
いかにも年末という風情を味わうには落語が一番のようで、落語の世界で年の瀬というと、まず代表的なのが(芝浜)です。良妻賢母を絵に描いたような賢いおかみさんが出てくる人情話です。 他にも大晦日を舞台に幽霊がお礼にくるという、年末には珍しい暗い(除夜の雪)なども、しみじみ忘れがたい噺です。 深深と冷える雪の降り積もった大晦日の夜、山奥の静かなお寺に一人の女性が借りた傘を返しにきます。 ひっそりとした大晦日の情景と哀れな女性の生き方が印象に残る噺です。 一番有名な(芝浜)はそれ故かどうか、噺家によって様々な解釈があるようです。 酒飲みの主人公が一念発起して酒を絶ってしまうのですが、そんな簡単にやめられるような酒飲みは本当の酒飲みじゃない、本当の酒飲みならどんなに困っても酒をやめないはず、酒飲み根性が足らない。(すなわち意志が弱い??) とか、わざわざ大晦日におかみさんが亭主に真相を話すという設定は、あまりにおカミさんが小賢しく見えてしまうので、もっとさりげなくやりたい。 例えば酔った勢いで、つい真相を話してしまうようにした方が、おカミさんが純情に見えるはず? などなど、いろんな解釈があるようですが、何れにしても、ほろっとするような良い話であることは間違いありません。 何と言っても大晦日の夜にハッピーエンドで終わると言うのが良いのです。 この話、もともと三題噺といって題を3つもらい、そこから話を作っていく話だったそうですが、この芝浜に使われている3題(酔っ払い)(皮財布)(芝浜)を使って一の輔が作った新作落語(シバハマ)を聞いてみました。 これが南蛮人が主人公でウミウシ、鰹の親分から銭形平次まで登場するという荒唐無稽のぶっ飛ぶような落語なのですが、なかなの力作で大変に面白いのです。 しかも落ちで本物の芝浜に繋がっていくところが見事です。 同じ一の輔の(芝浜)はまだ薄暗い海岸の情景がカットされていて、主人公が家を出たと思ったら、すぐ帰ってくるシーンに切り替わってしまいます。 まだ星が輝いている明ける前の寒々しい海岸の風景と言う場面が好きなので、ここが省かれると、ちょっと寂しいのですが、さらっと聞かせてくれるところがとても好きです。 長々と芝浜のことを書きましたが、本当のところ僕としては同じ大晦日を舞台にしていても、もっと気楽に笑える話の方が好きなのです。 (芝浜)のおかみさんは確かに賢いのですが、(尻餅)に出てくるおかみさんは可哀想だけどもっと可愛げがあります。 年末になって餅を買うお金もないと文句を言うおかみさんに亭主が提案したのは、とんでもない奇策です。 なんと夫婦で餅をつく真似をして近所に自慢してやろうと言うのです。 亭主が餅つきの職人に扮して長屋を訪れ餅をつくところを実演するのですが、その餅をつく音とは、おかみさんの尻をまくって素手たぺたん、ぺたんと叩く音なのです。 寒い中二人で演じる餅つきの真似は、何もそこまで見栄を貼らなくてもと思いますが、なんとも憎めないパフォーマンスではないですか!。(おかみさんは大変です!) 大晦日といえば昔は掛け取りが、借金を取りにくる日です。 のんびりなどしてられません。この借金取りを題材にした噺の傑作が(掛け取り万歳)です。 やってくる借金取りの趣味につけこみ、ご機嫌をとって借金を待ってもらおうと言うのですから、大変な技術が入ります。 まずは狂歌好きの大家に始まり、喧嘩好きの魚屋、芝居好きの醤油屋、そして三河万歳好きの酒屋と、その全ての人が満足するような器用な対応で借金取りをケムに巻いてしまうのですから、その才能と技術はは並み大抵のものではありません。 これほど器用なら借金などせずとも暮らしていける才覚がありそうなものですが、さすが落語の主人公です。本道ではないところに能力を発揮するのです。 この器用な主人公を演じるのですから、噺家の方にとっても相当難しい噺なのではと思います。 そしてもう一つ大晦日の借金とりの話(言い訳や)と言うのも好きです。 これは(言い訳座頭)(睨み返し)と言う二つの噺を一つにまとめたものらしいですが、色々と工夫して借金の返済を引き伸ばすと言う(掛け取り万歳)と同じ趣向の噺です。 借金を取りにくる人を払わずに追い返すのですから、これはよほどの知恵と工夫が要ります。 前半はあんまの市さんが機転で切り抜けるのですが、その途中で今度は自分の言いわけが残っていると帰ってしまいます。困っていると、後半は睨むだけで追い返すと言うプロの言い訳やが登場します。 睨んだだけで追い返すのですから、こちらも相当な技術ですが、やっぱり機転で追い返す方が面白くスマートに感じます。 とはいえ、この睨みのプロの腕はすごい、どんな借金取りも睨まれただけですごすごと退散してしまいます。ところがプロだけあって、こちらは時間制です。 制限時間がすぎてしまい、まだ他にも借金取りがくるはずだと焦っている夫婦に、この睨みやが言います。 (大丈夫、もう借金取りはきませんよ、ほらもう除夜の鐘がなり始めました)。 なるほど女房の尻を叩いて餅つきを演じている夫婦の元にも、借金取りに言い訳するのにあくせくしている夫婦の元にもいつしか除夜の鐘が聞こえてきて、全ての事はまた新しい年からね!となるのです。 そして新しい年が来て、あっという間にまた大晦日、同じことを懲りずに繰り返すのが落語の世界の住人たちです。 しょうもないものだと思ったら、どうやらそれは落語の世界の住人だけに限らないようです。 さてこれから深深と冷える外に出て、除夜の鐘でも聞いてみますか・・・。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-31 18:25
| おもしろ音楽
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2017年 12月 26日
先週見た東京バレエ団のベジャールの【くるみ割り人形】が想像以上に斬新すぎたので、見終わってからオーソドックスなものが見たくなってしまいました。
調べて見ると、サンクトペテルブルグ・アカデミー・バレエ団の上演が地元で行われるのを見つけました。ロシアのバレエなので、こちらはこってりと古典的なはずです。ところがこちらも演奏が録音なのです。 せっかく見るならやはり本物オーケストラの伴奏でないと気分が出ません。 特に僕のように踊りの良し悪しなどあまりわからないで、全体的な雰囲気だけでぼーっと見るような、いい加減なバレエの見方だと音楽はとくに重要です。 というわけで他の公演など探していると、たまたま同じ公演の昭和女子大学人見講堂での割引チケットの案内メールが来ていました。 見るとこちらの公演だけは本物のオーケストラによる演奏でしたので、行ってみることにしました。 くるみ割り人形の音楽はクラシックファンの方でも、聞くことが多いのは全曲盤ではなく、組曲といわれる抜粋盤のアルバムが多いのではと想像します。 ところが全曲盤でないと一幕目の最後のシーン、雪が舞うなかで雪の精たちが群舞を踊る場面で流れる、コーラスの入る部分がカットされているので、せっかくなら全曲盤を聞きたいところです。 こちらはベジャールとは違い、定石どおりクリスマスの街の風景から始まります。 演奏は東京ニューシテイ管弦楽団です。 当然ながら録音とは違って生のオーケストラの弦の音は柔らかく、木管や金管の音もくっきりと浮かび上がり気持ちの良いものです。 やはりバレエは録音でなく生のオーケストラ付で見るに限るようです。 指揮者は外国人(多分ロシアの人?)なのですが、何処を見ても(たぶん有料のプログラムを購入しないと)この指揮者が何者かわかりません。 当日の出演者の名前を書いたペラペラの一枚の紙が入場時に渡されたのですが、そこにも情報はありません。 もしもバレエ団と一緒に来日した指揮者?だとしたらちょっと可愛そうになります。 ファーストシーンは定石どおりクリスマスの街を忙しそうに行きかう人々です、やっぱりここから始まらなくてはね、と思ったのでした。 衣装も踊りも実に古風なもので、安心して見ることができましたが、途中見ていてなんとなく感じたのが、どこか緊張感が無いというか、もっさりとした印象なのです。 先日ひさしぶりに東京バレエ団を見たときに感じたのは、なんと日本人もプロポーションが良くなったのかという事でした。 みんな日本人とは思えないほど、ほれぼれとするほど足が長くスレンダーなのです。 確か昔の小津かなんかの映画に、バレエを見に行くシーンがありましたが、その時画面にうつていたバレエシーンと較べるとバレリーナのスタイルがまるで別次元です。 日本人の体格もここにきて完全に西欧化したのだとつくづく実感したのでした。 今回のバレエ団はロシア人ということもあり、日本人より大きく立派な体格なので、より迫力があるかと思っていたらそうでもないのです。 振り付けのせいもあるのでしょうが、むしろ日本人ばかりの東京バレエ団のほうが切れ味良く、迫力ある踊りのように感じられてしまったのです。 踊りに関してはまったくのしろーとなので、そんな印象は的外れかも知れませんが、今回の舞台を見て、なるほど東京バレエ団のレベルって相当高いものだったんだと、改めて感心したのでした。 もう一つ感じたのがこの公演は全国各地を回るためかどうか、舞台装置や美術、照明にあまり手間がかかっていないように見える事です。 1万円以上のチケット代に見合っているかどうか、少々評価の分かれるところでしょう。 一番楽しみにしていた雪の精の群舞のシーンも、普通は舞台にはらはらと雪が降って、それはそれは綺麗なのですが、この舞台には雪は降りません。(ちょっと寂しい!) しかもこの場面、通常だとオーケストラに録音されたコーラスが入るのですが、そのコーラス部分は省略されて、そのメロデイをオーケストラが演奏していました。 ほかにもクララが小さくなってしまうことを表現するためにクリスマスツリーがにょきにょきと大きくなっていく場面も、そのにょきにょき具合が随分と控えめだったりと、随所にチープ感を感じてしまうのが残念でした。 僕が一番見たのはサンフランシスコバレエですが、これは同じ劇場で12月初めからクリスマスまで毎日上演するのですから、お金のかけかたが比較になりませんが、それに相応しい力の入った豪華な舞台でした。 日本では熊谷哲也率いるKバレエカンパニーのものがとても楽しく工夫されていて面白く、見ごたえもありした。 同じ金額を出すならKバレエカンパニーのほうが数倍楽しめるなと思いました。 とはいえお決まりの舞台は華やかで十分に楽しめました。 やっぱり【くるみ割り人形】は華やかでなくてはと改めて思ったのでした。 同時にやっぱりベジャールの振り付けはすごかったと、今回の踊りを見て改めて感心したのでした。 何を今さらですけど・・・。 (下はろうそくを並べて作ってあるハートです。元町商店街の横に流れる運河の辺りです。今年初めての試みのようです) ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-26 09:20
| おもしろ音楽
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2017年 12月 19日
クリスマスといえば【くるみ割り人形】です。
チャイコフスキーのあの音楽の冒頭部分が聞こえてきただけで、僕の頭のなかはすっかりクリスマス気分でいっぱいになります。(最近ではソフトバンクがこの音楽の一部をコマーシャルの中で良く使うのでイメージがずれて困ってますが) そしてバレエ【くるみ割り人形】といえばベジャールです?とは言えません。 というよりベジャール振り付けの【くるみ割り人形】てどんな風なの?と思ってしまいます。 モーリスベジャールはフランスの天才的な振付師です。 独特の切れ味の良い踊りはとてもモダンですが、ぜい肉をそぎ落としたようなストイックな踊りでありながら、そこには古典的な美しも間違いなく存在しています。 彼の振付けた【ボレロ】【火の鳥】は数回見ましたが、その迫力と研ぎ澄まされたような緊張感は圧巻です。 また日本文化にも造形が深く、日本の俳句を題材にした演目も素晴らしく美しい物でした。 (東京文化会館の階段) とはいえロマンテイックな夢でいっぱいの古典的な【くるみ割り人形】に、それと相反するようなベジャールが振り付けをしているのですから興味が湧きます。 加えてベルサイユ宮殿の庭でも踊った、ベジャールとは縁の深い実力ある東京バレエ団が上演するというのですから見逃せません。 【くるみ割り人形】のバレエは大好きなので、少なくとも5,6回は見ています。 なかでも一幕目の終わり、雪の精たちの群舞の場面はお気に入りです。 今回のチケットも早々と夏に購入したのでした。 いったいぜんたいどんな演出にになっているのだろうと期待半分、怖さ半分で東京文化会館に向かいました。 バレエは踊りだけでなく、普通はオーケストラの演奏なので音楽も楽しめます。ところが今回は東京バレエ団の公演としては珍しく録音した特別音源を使うと言うのです。 (下の写真、文化会館のホワイエは外と繋がってとても広々と感じます。最近のホールにはない開放感です) さまざまな演出を見ましたが、始まりは、たいていはクリスマスの前の慌ただしい町の風景ではじまります。 この冒頭のメロデイを聞いただけで、家路やパーテイに急ぐ人々の姿が浮かんで懐かしくなってくるほどです。 ところが今回は幕が開いてみるとあっとびっくり! 一応小さなツリーもあるクリスマスの部屋のようなシーンではじまります。なんとさっぱりした舞台なのでしょう。 登場人物たちの衣装もTしゃつに短パンといった簡素さです。そこにはクリスマスらしいムードなどまったくありません。 主人公は少女ではなく、なんと少年です。 ここから始まったストーリーは難解で、少なくとも僕には最後まで全く理解できなかったのです!。 (ホワイエから外の木々が見えるのは県立音楽堂と一緒です。外と建物が空間を共有しているのです) 時々画面にベジャール本人の映像があらわれて少年時代の思い出を、なんとたどたどしい日本語で語るのですが、その語りとストーリーのつながりも良くわかりません。 とはいえ赤と白の短パンにTシャツのようなシンプルな衣装で踊る群舞はさすがベジャールといった現代風の面白い動きです。 見ているとどうもこれはベジャールが母親にささげる思いを舞台にしたもののようなのです。 舞台装置もほとんどありません。 たった一つだけ、人間がよじ登れるほどの大きさの横座りした白亜の女性象が舞台の後方におかれていて、その前でのシンプルな衣装でのバレエはまるで現代美術の作品を見るような感じでした クリスマスムードを味わいに来た人は思わず驚いてしまいます。 音楽は確かにくるみ割り人形なのですが、内容はまったく別物だからです。 そのオリジナリテイはさすがフランス人ならではの風変わりで独善的なものです! しかも驚いたのは音楽だけはくるみ割り人形そのままかと思ったら、なんとアコーデイオンの演奏が入るのです! 特に僕の大好きな一幕目の最後の雪の妖精たちが踊る凍った湖の場面は、殺風景な町の公演のような場所に変り、しかもこの場面でアコーデイオンの演奏によるシャンソン風の、くるみ割り人形には存在していないワルツ曲までは入るのです。 しかもこのアコーデイオンオーケストラの演奏と一緒になって一幕目最後のメロデイまで奏でてしまうのです。(なるほど特別音源をつかうはずです!) (ホワイエに飾ってあった今回の公演の飾り付け、飾りはクリスマス気分なのですが・・) いやはやこれはまったくのくるみ割り人形ではありません。 くるみ割り人形の音楽を借りたベジャールの独創的、かつきわめて私小説的な母親へのメモワールではありませんか! これではあまりに現代的すぎる、と思ったのかどうか、2幕目の最後近くにくるみ割り人形が最初に上演された時のオリジナル通りの振り付けのグラン・パ・ド・ドウが踊られました。 これはいかにも昔風で、この踊りをみて、なんだかやっとバレエを見に来たようなほっとした気になったのです。 (ここのホワイエの天井は高く、照明は星空のように見えるのが好きです、前川国男の建物は立派なモニュメントのようには見えませんが、心地の良い内部空間を持っているのが特徴です) とはいえ独特のベジャールの踊りは十分に楽しめたし、踊りの見せ場も沢山あったのですが、そのあまりの独創的な演出は、くるみ割り人形を見に来ていた子供たちや僕にとっては、あまりにも想像外のものでした。 なんせねずみの王様や兵隊たち、もくもくと大きくなるクリスツリーも出ないし、なんといってもくるみ割り人形さえ登場しないのですから! バレエの演目としてみれば十分楽しめる内容ではあったのですが、あまりにも想像していたものと違いすぎました。 これではもう一度、古典的なくるみ割り人形を見て、クリスマス気分にたっぷりと浸りたくなってしまうではないですか。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-19 08:50
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2017年 12月 16日
どうして男が単純で女が複雑なのか、それはドンナ・アンナの婚約者、チェチェリーナの婚約者というともに恋人にたいしては絶対的に強い立場をもっているはずの二人の男が、どうも女性のほうにいいように操られているように見えるからです。 たとえばドン・ジョバンニに誘惑されてそれに載せられそうになるツェルリーナが、それを疑って不満に思う婚約者マゼットを子供をあやすように手なずけてしまったり、ドンジョバンニが地獄へ連れていかれて、悪は報いを受けた、これでめでたしめでたしというラストで、父親を殺されたドンナ アンナに協力し尽力をつくした婚約者が、これで僕たちもいよいよ晴れて結婚できるね、と喜ぶと、彼女に(いや、ちょっとまって、心が落ち着くまで後1年待ってください)などと言われてしまう始末です。 婚約者はどうして?とおおきな?をつけたままこの劇は終わってしまいます。 他にも怪しいのは彼女(ドンナ アンナ)が話した(ことのしだい)です。 ドン・ジョバンニが仮面をつけて寝室に忍び込んで来たのに気が付いて、それが誰とはわからないまま手を払いのけ、大声を出したら逃げた、というのですが・・・。 その後彼女の父親がその侵入者を追いかけ戦った末に殺されてしまいます。 そしてストリーの途中で声と仕草からその忍び込んできた犯人がドンジョバンだと気がついたというのです。 忍びこまれた時、本当に彼女は誰だか知らなかったのか、また実際にドンジョバンニと彼女の間には、その時なにもなかったのかどうか?彼女の言っていることは果たして本当なのか? もしドンジョバンニを憎んでいたのなら、彼が地獄に引き込まれた後、なぜすぐ婚約者の求婚を素直に受け入れなかったのか?というような様々な疑問がかけめぐるのです。 ちょっと見は勧善懲悪なストーリーに見えますが、前述したようにそれだけではないだろう、と思う人が沢山いるようで、近年のドンジョバンニの演出では、本来負けたはずのジョバンニが美女二人の肩を抱き、薄笑いを浮かべながら意気揚々と舞台にせりあがってくる場面で終わったりする演出も見たことがあります。 実は本当の勝者は彼だったというわけで、こうなると勧善懲悪の教訓的ストーリーはまったくすっ飛んでしまいます。今回の演出もそれに近いものがあるように感じました。 死んで舞台中央に横たわっていたジョバンニが、むくむくと起き上って、悪はほろびたと勝利の歌を歌っている登場人物たちのまわりを彼らの顔を見ながらぐるぐると回るのです。(もちろん彼らにはジョバンニの姿は見えません) これがどんな意味を持っているのか? シンプルにただジョバンニが皆に別れを告げているだけと考えることもできますが、僕にはどうもそれだけでは無い気がしてしまうのです。 と長々とストーリーについて書いてしまいましたが、モーツアルトのオペラの凄いのはそんな様々な思惑なんてまったく関係なく、素晴らしい音楽がついていることにあります。 ドンジョバンニの歌う誘惑の歌もそうですが、その内心はどうあれ、たとえ偽りの気持ちでさえ、まるで本当の気持ちかのように美しい旋律が奏でられます。これはモーツアルトのオペラの特徴でもあります。 今回のジョナサンノット指揮によるこのオペラはまさにそれが充分に楽しめるものになっていました。 オーケストラを中心に舞台を所せましと動き回る演出は、なかなか臨調感があります。 また舞台の真ん中で指揮する指揮者とーケストラ全体が良く見えるのがとても面白く、ジョナサン・ノットがある時はチェンバロの前に腰かけて、ある時は中腰で、ある時は立ち上がり、またある時は、とろけるようなうっとりした顔をしたり、厳しく睨みつけたりと、体と顔で一生懸命ニュアンスを伝えようとしているのが手に取るようによく見えます。 また楽器を演奏する奏者の動きも良く見えるのも面白く、一幕目ではオーケストラ席の一番後ろ3席が空席だったので、いったいなぜだろうと不思議に思っていたら、2幕目にはそこにおおきなトロンボーン(バストロンボーン?)を持った奏者が座りました。 いつ吹くのだろう、いつ吹くのだろうと心待ちにしていたら、吹いたのはおしまいもおしまいの騎士団長の石造(亡霊)が登場するシーンでした。その深い響きは地獄の底からやってきた騎士団長の石像(亡霊)にいかにもふさわしい重々しい音で鳴り響いたのでした。(すごい!) それに加えて、なんといっても本格的なオペラとなると大枚何万円も出さないと見ることが出来ないのに、今回の僕の席はなんと4000円という安さだったのです! ライブハウスで1時間程度さらっとジャズを聞いても1万円近くかかってしまうのですから、これだけ実力のある歌手とオーケストラをたっぷり聞くことができる今回の公演は較べるものが無いほどお得感があります。 派手な衣装や舞台装置がなくとも、オペラが十分楽しめるばかりか、別の楽しみ方も出来るのですから、こういう演奏会形式のオペラの上演はもっと増やしてもらいたいものです。 今回と同じジョナサン・ノット指揮で今度はフィガロの結婚を上演することがきまっています。 ぜひ行かなければと楽しみなのですが、なんと来年の12月なのですから、先の長い話です。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-16 08:00
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2017年 12月 14日
ジョナサン・ノット指揮、東京交響楽団のモーツアルト【ドン・ジョバンニ】に行ってきました。 実に聴きごたえがあるばかりか、演奏会方式とはいいながら出演者たちは通常のオペラのように演技し、舞台を縦横無尽にかけめぐるので見終わった印象は通常のオペラとあまり変りありません。 しかも横の上の席だったのでオーケストラ全体もみわたせて、これはこれで面白いものです。 切れの良い演奏と大迫力の歌を十二分に堪能することが出来ました。 オペラというと眉をしかめる人がいます。随分と高貴な趣味ね!などと敬遠したり、どうして、あんな鶏が絞め殺されるような声をわざわざ聴きに行くのか?などと思う人もいるはずです。かく言う僕も2000年の頃まではまったくそう思っていました。 きっかけはスターバックスです。といってもまだスタバが日本に上陸する前のこと、米国のスタバでは自社で作成した洒落たジャケットのオリジナルのCDを販売していました。 主にジャズでしたが、たまたまオペラのアリア集を購入したのです。家で聞いてみたら【おや?いがいといいじゃない】と思ったのでした。 その後クラシックにも興味をもつようになって、僕のクラシックの先生であるIさんが大のオペラ好きということもあり、随分とオペラのレコードを聞かせてもらううち、今まで嫌だと思っていたクラシックの声が、絞め殺される鳥の声とはまったく違う(あたりまええですが)、実は素晴らしいものだと言うのが解ってきたのです。 それから初めて本物のオペラを見たのですが、演劇、照明、衣装、舞台装置、オーケストラの演奏に歌という様々な芸術が一同の元に 集まってきらびやかなエネルギーを放出するのですから、これが面白くないわけがありません。(TVで見るとその魅力は半減どころか、それ以上に失われてしまいます。百聞は~ということわざはまさにオペラ(とバレエ)のためにあるようなものです) さてモーツアルトのオペラです。 どうしてわざわざそう断るかといえば、他のオペラと違いモーツアルトのオペラはどこか違うからです。 もしかするとそれは冷たいもりそばと、暖かい天ぷらそばくらいの違いがあるかもしれません。 おれは冷たいそばしか食べないぞ、そばなんていうのは冷たいのが本当さ、という人がいるようにイタリアオペラが好きな人の中には、モーツアルトのオペラを聞かない人もいるようです。 確かにモーツアルトの有名なオペラのストーリーというのは一風変わっています。 特に稀代の天才ダ・ポンテが脚本を書いた3部作は単なる恋愛コメデイというにはスパイスが効いています。 モーツアルトのコメデイスタイルのオペラ(オペラブッファ)にはイタリアオペラの恋のために生きるか死ぬかという、派手な悲壮感がないので軽くみられがちですが、どうして実はなかなか奥が深いのです。 特に今回見た【ドン・ジョバンニ】はその中でもひときわ異色です。 まずは、この時代にねっからの悪党が主役になるのは珍しいことで、とても野心的な試みだったと思われるのです? しかもその悪行というのがひたすら女好きというなのですから、現代よりいっそう不道徳に感じられたことでしょう。 オペラの主人公に悪人が登場するのは、嫉妬に狂ったすえにそうなってしまう【オテロ】、みずからに忠実に生きる奔放な女主人公【カルメン】など思い出しますが、ともにねっからの悪人というわけではありません。 しかもオテロの上演は1887年、カルメンは1875年で、【ドン・ジョバンニ】は1787年ですからおよそ100年近くも開きがあります。 どんな事があっても懲りないドン・ジョバンニを見ていると、僕の中で、なんとなく重なって見えるのが、スタンダールの小説【赤と黒】の主人公ジュリアン・ソレルです。 ドンジョバンニもジュリアン・ソレルも自分の欲望にきわめて忠実なのです。 当時の世界において自己の欲望を貫くというのは、実に先進的な思想だったのでは想像してしまいます。 この二つの物語の背景として無視することができないのがキリスト教社会の存在です。 まだまだキリスト教が社会全体に強い影響力を持っていたこの時代に、個人の欲望に忠実であるということは、キリスト教に対するあからさまな挑戦というセンセーショナルな一面も持っていたはずです。 とはいえ1000人もの女を犯し、ついでに女の父親まで殺してしまうという(しかもまったく反省なしで、次の獲物を物色します)稀代の悪党ドン・ジョバンニは、最後には殺した父親の亡霊によって地獄に連れて行かれてしまいます。悪行を重ねているとこういう最後に鳴ってしまうのだよ、という教訓劇になっているのです。にもかかわらずこの劇では、ほんとうにそういう教訓劇なの?と思わせるような 突っ込みどころがたくさんあるのです?。 まずはこのドラマにおける男女の描き方です。 僕にはこのドラマに登場するドン・ジョバンニ(騎士団長は亡霊となるので別扱い)以外の男が、実に単純で純情な男たちに、ある意味情けない存在として描かれているのに比べて、本来このドラマの被害者である女性たちは、ひたすら純情な面を持つと同時にしたたかとさも持っているように見えるのです。 (長くなったので続きます) 今回の写真は光則寺です。いつもたくさんの人で賑わっている長谷寺のすぐお隣にあるにもかかわらず、いつもひっそりとしているとても良いお寺です。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-14 10:43
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2017年 12月 07日
落語には結構子供が登場するのですが、僕が好きなのは【子別れ】【やぶいり】などの人情話に登場するような真面目で親孝行な子供ではなく、ちょっとずる賢かったりする子供です。といっても【佐々木政談】の子供のようにあまり賢すぎるのも可愛げがありません。 こどもの癖に大人を翻弄するような知恵のあるちょっとした悪がき、これが登場する話が面白いのです。 こちらの方に、より共感するのは、自分がそれに近いからかも知れませんが、もっと共感してしまうのが、その子供の父親のほうなのです。 そのよりシンパシーを感じてしまう、しょうもない父親が登場する落語が【初天神】と【真田小僧】です。 この話に登場する父親はそのまま時蕎麦に登場して余計に支払ってしまう人物でもおかしくない気がするほど能天気です。 こういう人がいたらぜひお友達になりたいと思ってしまうほどです。 この二つの話は、ともに子供が父親にねだる話なのですが、子供にとっては真剣です。 ありとあらゆる手を使って親からせびりとろうとするのですが、面白いのはその相手が必ず父親に限るということです。 母親のほうは現実的ですから、一刀両断でダメを出されてしまうのですが、その点父親のほうは人が良く、つけいる隙があるようです。 ところが現実世界ではオレオレ詐欺のように、息子が親からお金をせしめる相手は母親のほうのようです。 またオレオレ詐欺がかならず息子と母親の組み合わせで、娘との組み合わせはない事も不思議です。 子供のころ、というのは後先を考えないところがすごくて、まるで自分の体験だったかのようにいつも思い出すのが、三遊亭白鳥のまくらに出てくる話です。 新潟の田舎に住んでいた白鳥はそのころから肥満児で、親から近所じゅうのお菓子屋さんに販売禁止令が出されていたので自由に買う事が出来ません。 アイスクリーム好きの彼はある年の初め、お年玉を握りしめ、雪の中を数キロ離れた隣町まで自転車を走らせ、レデイボーデンのアイスクリームを購入するのです。 夢に見るまで憧れていたレデイ―ボーデンのおおきなパックです。 もちろん家には持って帰れません、雪ふりしきる帰り道、橋の下に自転車を止め、レデイボーデンを抱えてひたすら食べるのです。 【うまい、寒い、うまい、寒い】・・・あぶなく凍え死にそうになったというお話。 という風に子供の欲望というのはけっこう強烈なものなのです。 真田小僧ではおこずかいをくれない父親に情報戦を挑みます。 【そういえば、この間、とうちゃんのいない時にサングラスをかけたおじさんが来て、それを見たかあちゃんが喜んで家に入れた】という話をします。 これが気になる父親は話を聞きたがります。そこですかさず情報をお金に変えるのです。 しかもこれが第一弾、その後、ふとんのある部屋に案内したとか、障子から覗いたとか、そのさんざん気を持たせてその度にお金を徴収します。 これにどっぷりと乗っかってその先は、その先は?とお金を払い続ける親父のマヌケぶりが愉快です。 結局その人は良く来る按摩さんだったのですが、まんまとだまされた親父が悔しがること、悔しがること。 しかし話はこれで終わりません。この後父親と母親に話を盗み聞きし、その話を題材に再び見事に父親からお金を取り上げてしまうのです。2度も続けて騙されてしまうという、この父親の底抜けにダイナミックなマヌケぶりが良いのです。 初天神の子供はもっと子供らしい子供です。とはいいながら親の弱点をしっかり把握しており抜け目のないところもあります。 いつもねだるので絶対一緒には外出しないという父親に、母親のとりなしをもあり、絶対ねだらないと固い約束をして連れていってもらうことになります。 連れていかないなら、昨晩のことを隣の家に行って話てくると言って家を出て、昨晩の夫婦の様子を事細かに語ろうとする寸前、あわてて親が止めに来る場面を入れる噺家もいます。 別のバージョンでは連れていかないと言い張る父親に【それじゃまた例の家に行くんだろう】とありもしない話をして母親に心配させ、母親から連れていきなさいという言葉を引き出したりとなかなかの策士ぶりを発揮します。 とはいえ、たいがいの噺家はこの辺りシンプルに、ダダをこねるのでしょうもなく連れて行くという設定にすることが多く、それがこの話の流れでは一番自然かも知れません。(この辺りは僕が真田小僧と混同している可能性もあります) いざ天神様に出かけると、そこは子供です。当然だまってはいられません。 【今日は何も買ってくれって言わないご褒美に、なんか買ってくれ】などと言い出します。 かたくなに拒む親父にたいして、大声で泣いたり、赤の他人にすがりついたりと、手腕を駆使してなんとか飴玉ひとつだけならという妥協案を引き出します。このあたりの親子のやりとりも聴きどころです。 ところが子供が主体のはずなのに、これから先は親父のパフォーマンス全開です。 この落語を子供の面白さに重点をあてて屋台のシーンで話を終えてしまう噺家もいるのですが、僕にとってはこの話は子供と同レベルで真面目に戦う親父の様子が一番好きなのです。 飴玉を選ぶのに一つづつ舐めながら選んだり、団子のみつをすべて舐めてしまってから子供に渡してしまい、子供に怒られて上手いこといいながらもう一度蜜壺に浸してしまったりと、やりたい放題の親父の独断場が聞きどころです。困ってるのはむしろ子供の方なのです。 そして話はクライマックスへと向かいます。 最後に凧をねだられた親父はわりとすんなりと凧を買ってあげるのですが、そこには深い魂胆があったに違いありません! 凧を持った親父はそれを上げるのにすっかり夢中になってしまいます。 どうだこんなに高く上がったぞ、などと子供に自慢する始末、子供が糸を持ちたいといっても知らん顔です。 そのうちにもっと高く飛ばしたくなって子供に糸を買わせに行かせる場面があるのですが、この場面を省略する人も多いのが残念、なんといってもそこまで凧に夢中になっているという親父の姿がより際立つからです。 またこの親父を反面教師とかアイロニーのある存在として描こう、などと言うのは野暮なことと言えるでしょう。素直にこの親父の天真爛漫ぶりを笑ってあげましょう。(ちょっと自分でもやりそうなところが怖い!) 糸を買いにいった子供が預かった財布に入ったお金すべて使って大量に糸を買ってきてしまうのですが、さほど気にする素振りはありません。あれほど飴玉一つでもケチだった親父がもうそんな金銭感覚まで忘れてしまうほど夢中なのです。 この親父の天真爛漫ぶりをいかに生き生きと描くかがこの話の一番面白いところなのですが、白鳥のように、むしろ子供の方に重きを置いて話す人もいます。 これはこれで充分に面白いのですが、やっぱり最後の最後で親父があまりにも凧揚げに夢中になって子供にあきれられるという場面があってこその初天神だと、この天真爛漫な親父の大ファンである僕は思うのです。 というわけでこの【真田小僧】と【初天神】の主役は実は子供ではなく親父だと思うのですが、これには異論も出そうです! そんなことは実どうでもよくて、ともかくも面白い話なので聞いたことの無い人はぜひ聞いて見てください! (今回の写真は全て横浜の三渓園です。良いところです。) ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-12-07 17:49
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2017年 11月 18日
音楽の好みというのは面白い物で、というより人の好みというのはそれこそ千差万別でして、(え!あの人があれを!)みたいなことがしょうっちゅうあります。 と思えば、まったく好みが違う人と思っていても、ある部分ではぴったり合ってしまったりもするのが面白いです。
とはいえ好き好きを聞いていると、人は同じものを見ながらも、実はそれぞれまったく別の物を見ているというのがよく解ります。 先日カーズ2を見直していまして、この映画は子供向けとは言い切れないほどマニアックです。 ストーリーそのものが、まずマニアックで、出来が悪く見捨てられたB級車が反乱を起こすというものです。(その気持ちわかります!日野ブリスカは今どうしているでしょう?) そのB級車も実在のAMCペーサーとかAMCグレムリンとか、実際に昔日本でも見かけた車が登場したりしていて、登場する車の元は何か?という元ネタ探しまで楽しめるというマニアックさです。 こんな車雑誌を見るように面白い映画を子供に独占させるのはもったいないと、たまに見直したりしているのですが、そこでこの話の本題です。 本編が終わりその後スタッフなどの名前が出るシーンで男性歌手のこれぞカントリーみたいな曲が流れたのです。おっ!これって良い曲じゃない! 僕にとってカントリー音楽とは、誰かにとっての演歌と同じです。なぜかこれを聞くとほっとするのです。 そのかわり演歌を聞いてもまったくほっとしたりはしないのです。 かといって大のカントリーファンでしょうっちゅうカントリーミュージックを聞いているかと言うと、そんな事はまったくなく、たまにこうやって偶然出会ったりすると、【おお!懐かしいね、そこでいっぱいやろう!】みたいな感じになるのです。 僕は飲めませんが、たぶんそんな感じです。 しかし2,3杯やると、ではなくて1、2曲聞くともういいかな・・と思ってしまうのです。 演歌とカントリーはどんな曲を聞いても、コード進行や歌詞の内容が同じで、どれも同じ曲に聞こえるという共通点があります。 こぶしをたっぷり利かせて声の良さをフルに発揮する歌い方も似ています。 カントリーをアメリカの演歌だと言い切る人もいます。 たしかに両者とも庶民の音楽で上品で気取ったもので無いことは確かです。 両者とも頭に(ど)がつくと良く似合うことでもそれがわかります。ド・カントリー、ド演歌です。 そこでこの歌を歌っていたBrad Paisleyというカントリー歌手のアルバムを早速ヤフオクで早速購入して聞いて見ました。豪速球の実力派ストレートカントリーです。 ものすごく上手いのですが、どこか下品なエレキギターといい、よい声に、こぶしの効いた歌い方といい、これこそカントリーという感じです。 しかしながら、この気持ちの良さにどっぷりと浸っているうちに、どれもだんだんと同じ曲に聞こえて来ます。気持ち良いのですが少々飽きてくるのです。 そんな中で、しばらく聞いていると今までの曲とは違ったアコーステイックギターのスリーフィンガーの伴奏で、昔親しんだ曲が流れてきました。 懐かしのカーターファミリーの名曲【サニーサイド オブ ライフ】です。 人生の明るい面を見ようという、やけに健康的な曲です。 これを聞いて、やっぱり僕はオールドタイムやブルーグラスのほうが好きなのだなと思ったのです。 難しいのはこれからです。ワインを飲まない人にピノ・ノワールの赤とシャルドネの白の味の違いを説明するようなものです。(僕は飲まないのですけど!)同じワインとかカントリー音楽というくくりは出来てもカントリーとブルーグラスでは少し、というか赤ワインと白ワインほど違うのです。 とはいえブルーグラスやオールドタイムとカントリーの違いについての詳しい説明は何度も書いていると思うので、ここでははぶきますけど、興味の無い人から見ればどれも同じに思えるものが、人によってはまったくの別物に見えるという事が、ここでも明らかになるのです。 カーズ2に登場していた不人気B級車のペーサーやグレムリンだって今では専門のカークラブがあるそうです。 まさにどんなものにも価値は見いだせるのです。 くれぐれも一瞥しただけで、他人の物をくさす癖は止めようと思ったのでした。 カーズ2を見たことがきっかけで、今まで知らなかった凄腕のカントリー歌手を知った上に、こんな立派な反省まで出来るのですからアニメもバカにはできません。 それに難しい映画を見たらもっとためになるかと言うと、そうでもなさそうなのが難しいところです。 ■
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by omoshiro-zukin
| 2017-11-18 22:06
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