東次郎 家伝十二番もいよいよ折返しに来ました。【法師が母】と【月見座頭】 |
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2019年 09月 26日
4月から始まった東次郎家伝十二番も、いよいよ今月で6回目、折返しに来ました。
これは本当にありがたい企画で、僕のような初心者にはうってつけです。 会を重ねるごとに、こんなものもあるんだ!という新しい驚きにあふれていて、さすが東次郎さんが選んだ演目です。 そして第六回目に当たる今回ですが、これがまた今まで見たものとはちょっと違う、とても渋めの2曲でした。 狂言は喜劇という概念から見ると、この2曲はどこか異色に感じられます。 というのもゲラゲラ笑うような可笑しな場面よりも、どこかシーンとさせられるような雰囲気と緊張感が続くからです。 はじめの曲は【法師が母】です。 シテが入ってくる場面からしてちょっと変わっています。 最初から千鳥足で橋掛かりをやってくるのですが、本舞台にやっと辿り着くほどひどく酔っています。 家に戻って妻を呼ぶのですが、なかなか出てこない、やっと出てくると何をしていたと煩く詮索し、お前のような妻はもういらないと家から追い出してしまいます。 シテが本舞台にたどり着くと同時に太鼓と小包、笛、地唄の三人がしずかに登場します。 太鼓の縁を叩いて出す、ドラムのスネアーのような音の響きはなんと迫力があることでしょう。 ときに小さく、ときに大きく、波のように抑揚のついた【イヨー】という声は静かな空間を震わせます。 この音楽?を聞くと、いつもまるで弦楽四重奏団を聞いているような気持ちの良さになるのが不思議です。 初めて狂言をみたとき、その言葉が意外にも理解できるのに驚いたのですが、このように謡がはいる狂言だと、一気に言葉が理解できなくなるのがちょっとつらいです。 自分で追い出したくせに、朝酔が冷めてみると自分のしたことに驚き、狼狽し追いかけます。 その半狂乱の様を手に持った笹が表現しているそうですが、謡と舞でその慌てぶりが表現されます。 この曲は特に笑えるようなところはありません。 逆に男という生き物が、いかに愚かで哀れかということを描いているようで、実にしみじみとしてしまいます? 2曲目は季節に合わせた演目【月見座頭】です。 風流な月見という美しい自然を舞台に、それとは対照的な人間の愚かで不可思議なところを描いた、ちょっと辛辣な短編小説のようです。 こちらもシテが本舞台までたどり着くのに時間がかかります。 竹の杖を頼りに目が見えない座頭がゆっくりと歩いてくるのです。 杖をつくこつこつという音とすり足のかすかな音が響きます。 本舞台は一面の原っぱです。いたるところで虫が鳴いています。 座頭は目が見えないのですが月見と洒落て虫の音を楽しみに来たのです。 あっちで鈴虫、こっちで松虫、そこでこおろぎ、などと虫の音色を楽しみます、 そこで出てきた名前がキリギリス、えっ、キリギリスってそんな古くからある名前なんだ!と驚きました。 カタカナ風の語感といい、なんだか外国の言葉かと思っていました。 そういえばカタカナといえば日本では漢字やひらがなよりも昔から使われていた文字です。 もともとは祝詞などに使われていた文字だそうですが、それがなぜ外国語の表記に使われるのか不思議です? そこに酒の入ったひょうたんを下げて月見にやってきた男がやってきます。 二人は挨拶代わりにお互いに歌を交わすのですが、その歌が百人一首に乗っている古歌だったので、これで意気投合して酒を酌み交わし、舞を舞います。 こうして楽しい月見の夜はふけていくのです。 酒を飲んですっかり気持ちよくなった二人は上機嫌で別れます。 美しい月夜のことでした。終わり。 となれば良いのですが、別れた後なぜか男はいやがらせをしてやろうと思い立ち、座頭に忍び足で近づき引き倒して逃げてしまいます。 見ている僕らは、なんで今まで仲良くしていたのに・・・なんて嫌なやつと不思議な気持ちになります。 この二人、心が通い合っていたように見えるのですが、実はそうではなかったことが曲の中で暗示されているのです。 それは男は都へのぼる、座頭は下る、と反対ですし、男が月を歌った歌(天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも)を詠むのに対して、座頭が詠む歌は(きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしき一人かも寝む)と虫の音の歌です。(確かにきりぎりすは百人一首にも出てくるのですから、古い言葉でした。) そして座頭が舞う舞いは能の(弱法師)の盲目の人がいじめられる場面です。 これも楽しい酒宴の舞いにしては少し暗すぎます。 というふうに一見楽しげに見えた酒宴ですが、実はそうではなかったかもしれないのです。 同じ場所で同じ体験をしていながら、見ているものが違う、感じているものが違う。 これは実は実生活では頻繁に起こっていることのような気がします。 地面に倒された座頭は這いつくばって、なんとか杖を見つけ立ち上がります。 そしてなんて嫌なやつがこの世の中にいるのだと、嘆いたあと、【くっさめ くっさめ】と2度ほどくしゃみをして去って行くのです。 このくしゃみが効いています。悲惨な出来事があっても、それとは関係なく、否応なしに日常は進んでいくのだという印なのです? くしゃみで現実の世界に引き戻すとは、狂言の演出はさすがに深いものだと勝手に感じ入ってしまいました。 月見座頭も一曲目と同様に人間の不条理さを描いているようです。笑いと不条理はほとんどいつも隣り合わせなのです。 今回の2曲は、普通の狂言とはちょっと違い、笑いはほとんどありません。 またまた狂言の別の面の奥深さが、ちょっとだけ覗けたような気がしたのでした。 本当にためになる企画です。後半の6回が楽しみです。 #
by omoshiro-zukin
| 2019-09-26 09:00
| おもしろ狂言
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2019年 09月 24日
ファッション関係のドキュメンタリー映画は大好きです。 それは全く知らない世界を見せてくれるからです。 そのドキュメンタリーを見るたびに、ファッションデザイナーは芸術家の中で、一番大変な分野だと思います。 何と言っても年に数回、必ず作品を発表しなくてはならないからです。しかもその創作点数はとても多いのです。 まさに才能を搾り取るようにショーを企画していくのです。 しかもそれが年に数回、季節に応じて行われます。 画家でも音楽家でもこれほどプレッシャーを受けることは、まずないでしょう。 その作品が生まれる過程は華麗と言うよりは激しい戦いのようです。 その創作の苦しみは時間的制限があるためより厳しいものに見えます。 もちろんただの商売上手の芸術家というより職人のようなデザイナーだってたくさんいます。 でも当然ながらそういう人のドキュメンタリー映画というのはありません。 なのでファッションデザイナーのドキュメンタリー映画はいつも緊張感に満ち溢れているのです。 残念ながら(アレキサンダーマックイーン)と言っても、ファッションに詳しい訳ではない僕が知っているのは名前くらいのものです。 この映画「マックイーン・モードの反逆児」もまた一人の才能ある芸術家の、才能を削り取っていくような厳しい人生を描いたものでした。 もともとマックーインはロンドンのタクシー運転手の家に生まれた末っ子です。 16歳のときからロンドンの紳士服の店で働いていた仕立て職人でした。 彼の運命を変えたのは、その後通ったデザイナーの名門校セントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・スクールの卒業制作でした。 その作品を認めてまだ無名だった彼のコレクションを5,000ポンドという大金で買い取ったのが(イザベラ・ブロウ)でした。 アナ・ウインターの元でボーグで働いていた彼女は、その後「TATLER」のスタイルエデイターとしてファション界で有名なスタイリストでした。 才能が世に出るにはそれを認める別の才能が必ず存在しているのです。 自分自身の才能をフルに発揮したマックイーンはその過激なスタイルで圧倒的な支持を受けます。 そして彼女とマックイーンは親密な間柄を築きます。 この映画では彼女や彼女の夫のインタビューでマックイーンとの幸せな時間を語っていきます。 同じように彼の元恋人も登場し、彼との幸せな時代を語ります。 それにしてもどうしてファッションデザイナーの恋人というと男が多いのでしょう。 きっと特別な才能がある人がゲイになるという、何か遺伝子的な法則があるのかもしれません。 27歳でジバンシーのデザイナーに抜擢されたころの彼はまさに幸せの絶頂にいるように見えます。 しかし5年後にグッチグループの傘下に入り自らのブランドを移し、自らの名前のブランド一本で生きるようになります。 その頃にイザベル・ブロウとの破局が訪れます。 溢れ出るような才能と、世界に認められたという自負、そしてそれを維持するためにに才能を削って行く生活が、自分以外の人間を否定していきます。 そして最後は自分自身まで否定することになり、40歳で自らの命を絶ちます。 それにしても彼のショーは僕の目にはファッションショーという概念からかけ離れたものに見えます。とても斬新で過激な現代美術の作品のように見えるのです。 それはまた、既存のファッションブランドを引き裂く鋭い叫び声のように聞こえるのです。 さてこの映画で僕が一番興味深かったのが変わって行くマックイーン本人の姿です。 アートスクールを卒業することは、まるでロンドンの街の悪ガキ風に見えます。 自らのブランドを立ち上げてさらにジヴァンシーのデザイナーもやっているころも、その風貌は同じです。 そして着ている服もチェックのシャツとか、ロゴ入りのTシャツとかまるで街の普通の若者のようです。 イザベラの自宅の庭で遊ぶシーンなど、なんとバーバリーチェックの長袖シャツです! そして成功とともにどんどんと太って行きます。 その後過激なショーの成功とともに、彼自身も手術で脂肪を落とし、着ている服装もシンプルな白とか黒とかのシャツに首にアクセサリーといういかにもデザイーナー風のスタイルに変わっていきます。 かつてのロンドンの下町の悪ガキ風なイメージはまったくなくなり、同時にその表情もどんどん険しいものになっていくのです。 それはまるで才能と引き換えに悪魔に平安を売った男の物語そのままに見えます。 ファッション界という、利益を追求することが宿命といえる世界で、純粋に芸術的な才能を発揮していくことがいかに大変なのか、デザイナーのドキュメンタリー映画を見るたびにそう感じます。 #
by omoshiro-zukin
| 2019-09-24 11:24
| おもしろ映画
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2019年 09月 22日
ドキュメンタリー映画は大好きです。
というのもドキュエンタリーの方が、普通の劇映画より驚きや新しい発見があるからです。 「セバスチャン・サルガド」はブラジル出身の写真家です。 彼の写真は一度見ると忘れられないほどインパクトのあるものです。 このブログに僕の写真と彼の写真を一緒に並べるなんて、そんな大それたことは出来ないので、彼の写真を見たい方はネットで検索して見てください。 そこには(なるほどすごい!)と思われる説得力のある写真が載っているはずです。 と偉そうな書き出しになってしまいましたが、僕が「セバスチャン・サルガド」の名前を知ったのはつい最近のことでした。全く世の中知らないことだらけです。 しかも彼を主人公にした、ノンフィクション映画まであったのです。 映画の日本題は(セバスチャン サルガド・地球へのラブレター)。 この映画は2015年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされたほか、ベルリン国際映画祭、セザール賞、カンヌ国際映画祭など、数々の賞を受賞していたことも知りました。 フランス人の写真家が主人公のドキュメンタリーを2本も見ているのというのに、この映画のことは全く知らなかったのですから、僕のレーダーも相当にもうろくしているようです。 しかもこの映画、監督があの(ブエナビスタ ソシアルクラブ)で腕の冴えを見せたヴィム・ベンダースなのです。 ヴィム・ベンダースといえば、ロードムービーの旗手として活躍し、(アメリカの友人)(パリ・テキサス)(ベルリン天使の詩)などの数々の名作を残した名監督です。 これは見ないわけには行かない、と遅ればせながら早速見ました。 冒頭はさすがヴィム・ヴェンダースの面目躍如というシーンから始まります。 どこかの山の中腹に一人佇む男の姿が、モノクロで映ります。 それは考えられた構図といい、雰囲気といい、まるでサルガドの写真そのもののように見えます。 ところがしばらくたつと、その男が動き出すので、そこで初めてそれがサルガドの写真ではなく、ヴィム・ベンダースの映像だったことに気がつくのです。 そしてその男は実なサルガド本人で、その本人が語りだすところからこの映画は始まります。 それにしてもこの冒頭のモノクロの写真のように見える画面はすごいものです。 ヴィム・ベンダースもこのシーンを撮るのに相当凝ったのだと思われます。さすがです。 写真家という言葉は単純ではありません。 画家とか彫刻家とかは単純に芸術家という範疇で括ることが出来ますが、写真の場合は報道と芸術という二つの分野に別れているからです。 サルガドの場合は最初は明らかに報道写真家という部分の方が大きかったように思われます。 とはいえ彼の報道写真は単に報道するという以上のものを表現していたことは確かです。 彼の写真は現実を切り取るだけでなく、明らかにその背後にある何者かまで写し取っていたからです。 彼が報道写真家の集まりである集団(マグナム)を離れていくのは必然だったかもしれません。 彼の写真集のテーマに沿って、彼の写真を交えながら映画は進んでいきます。 採掘現場で働く人々、油田の火事を消火する人々、それは圧倒的なエネルギーで迫ってきます。 ところが彼は難民をテーマに写真を撮り始めます。 骨と皮ばかりになって死んでいくたくさんの子供達、その写真は正視するのが辛いほど悲惨です。 そこではあまりにも過酷で悲惨な現実が、芸術を追い越して、直接的に迫ってきてしまうのです。 これらの写真は映画を見ている僕でも辛いのですから、実際の現場で写真を撮ったサルガドの心を蝕まないわけがありません。 人間のあまりの残酷さに絶望したサルガドは、人間を撮ることをやめ動物や風景を撮ることによって、自らの心を回復させていきます。 彼が撮る動物の写真は今まで見た動物写真より遥かに迫って来るものがあります。 とはいえ難民の写真があまりに強烈だった為に、その悲惨な印象が圧倒的に強烈で、なかなかに重い映画となってしまいました。 サルガドについて色々と書いてきましたが、こんな文章で、彼の写真の良さが伝わるわけがありません。 興味のある方は(セバスチャン サルガド)でググって見てください、そこで見られる写真が、もっと雄弁に語ってくれることでしょう。 すでにご存知だった人には、何を今更と言われそうですが・・。 先日の又兵衛といい、世の中には僕の知らな買ったすごいものがゴロゴロと転がっているので、とても追いつけません。 (続く) #
by omoshiro-zukin
| 2019-09-22 09:04
| おもしろ映画
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2019年 09月 20日
久しぶりに松本清張の「点と線」を読んでみた。 松本清張といえば社会派の推理小説で、社会の底辺を描いた作家という認識だったので、読んでみると意外にもシンプルでさらっとしているのに驚いた。 それよりも驚いたのが、この小説の肝とも言うべきアリバイ作りのことです。 それは犯人が東京駅に目撃者をつれていき、被害者二人が電車に乗るところを目撃させるという有名なトリックです。 そのとき犯人は自分のいる横須賀線13番線ホームから特急あさかぜに乗る二人を目撃させるのですが、13番線ホームから15番線ホームが見える時間は一日のうちたった4分しかないのです。 そのたった4分間を利用した巧妙なトリックだったのです。 どうして驚いたか、といいますと、実は僕は横須賀線を使っているのですが、最近は数分の遅れは日常茶飯事だからです。 この犯人が今のJRではダイヤが乱れるのは日常的なことだと知ったら、やはり驚くことでしょう。 今のJRの時代ではこんなトリックは成立することが難しいのです。 この小説が書かれたころには日本の国鉄の正確さは世界一でした。 電車が分刻みの正確さでくるのは当然のことでした。 皆がそれが当たり前のことだと思っていたから成立した方法なのです。 もう一つ今と大きく違うなと思ったのは、この頃の小説に描かれる犯罪とか殺人にはそれだけの理由があったということです。 そしてその理由(動機)は小説(映画)のテーマとしても重要なものだでした。 人がそれだけの行動を取るには(たとえば殺人)間違いなくそれだけの理由があったはず、というわけです。 作家もいかにしてこのような犯罪が行わてしまったのかを綿密に描いています。 映画も同じです。「天国と地獄」「砂の器」なども犯人の動機とその社会的背景がテーマと言ってもよいほどです。 それが今では、ほんの些細な理由で、もしくは理解できない理由で人が簡単に殺されてしまったりするのです。 さて話をJRに戻しますと、国鉄の頃はそれぞれの踏切に人がいて、踏切番のための小屋みたなものもあった気がします。 電車が遠るたびに白い旗を降っていた踏切番のおじさんの姿は馴染み深いものでした。 それがすべてまったくの無人踏切になったのは、民営化されてJRになってからのことです。 民営化というのは、無駄が無くなって、ものすごく良いことだと思っていたのですが、最近は良いことばかりではないことが薄々と判明してきました。 それは郵便貯金の不正勧誘問題や、さまざまな天災のときの東電の対応など見るとわかります。 なるほど民営化というのは利益の追求が第一となるので、利用者のためという大義はいつのまにか横に置かれてしまうのも、もっともな事かもしれません。 世の中どんどん便利になって行くと喜んでいたのですが、それは上手く言っているときだけののこと、ちょっと上手くいかなくなったときには、その本来の体質が見えてしまうようです。 不思議なのは昔は当たり前だっと思っていた、人々がどんどんいなくなっていることです。 踏切番を始め、バスの車掌さん、電車の改札のきっぷ切、町を歩いていて物を売っていた、金魚売り、豆腐売り、そんな身近に見えていた人だけではなく、きっと僕の知らないところでも、どんどんと、いなくなった人がいるはずです。 いったいそういう人たちは何処に行ってしまったのでしょう? こんなに様々な場所から人がいなくなって、一体大丈夫なのだろうか?と思うのは、僕が昔の人間だからかも知れません。 ふと気がつくと時代という波は、気がつくとどんどんと世界を別な方向へ押し流していくようです。 そして僕はまるで乗ろうと思った波に取り残されたサーファーのように、過ぎ去って行く波をただ眺めているだけなのです。 #
by omoshiro-zukin
| 2019-09-20 14:45
| おもしろ本
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2019年 09月 17日
ロバート・レッドフォードがこの映画で引退するという「さらば愛しきアウトロー」をみてきた。 毎回書いて申し訳ないが、最近の映画の邦題の付け方のセンスのなさには泣けてきます。 (さらば愛しき・・・)とくれば、いやでもあのチャンドラーの名作を思い出すからでしょうけど、安易すぎます。 まあこの映画の原題(The Old Man & the Gun)というのもいまいちピンときませんが。 それはさておき、ロバート・レッドフォードを最後に見た記憶というのは、僕の好きな映画監督のトニー・スコット(あのリドリー・スコットの弟です)の撮った映画「スパイ ゲーム」でした。(なかなか面白い映画でした!) ここでの彼は引退寸前の冴えない風貌のCIA工作官を演じていて、この映画をみて随分と年取ったなと思いました。 とはいえ昔のボロボロのポルシェ911を乗り回している姿が渋くてカッコよかったという印象があります。 冴えないようでいて、実は切れ者の工作館の役を渋く演じていてなかなか好感が持てましたが、やはりこの映画の主役はブラッド・ピットでしょう。 それでもこのときはまだ60台中頃のこと、今回の映画は80歳を超えてからの映画です。 ロバート・レッドフォードといえば何より思い浮かぶのがポール・ニューマンと共演した、「明日に向かって撃て」と「ステング」です。 続いて白いスーツのドレスアップ姿がきまっていた「華麗なるギャツビー」、同じく白いテニスセーターできめていた「リバーラン スルーイット」 そして個人的にはウオーターゲート事件を追いかけた記者を演じた「大統領の陰謀」、なかでも野球選手を演じた「ナチュラル」がとても印象に残っています。 いずれもどこかぼっちゃんぼちゃんとしたスマートさというようなものが彼の特徴でした。 さて今回の映画「さらば愛しのアウトロー」は実在の犯罪者であり、そればかりか実に16回も脱獄に成功したという実績を持つ人物がモデルです。 この男の人生を脱獄を含めてドキュメンタリータッチで撮ったらさぞ面白い映画になったのでしょうが、この映画では70歳を過ぎてからの物語が描かれます。 クリント・イーストウッドが90歳近くになって撮った映画もまた90歳の実在の犯罪者をモデルにしたものでした。 面白いことにこの2つの映画はともに2018年に米国で公開されているのです。 そしてさらに面白いのは2作とも実在の犯罪者をモデルにしているということです。 昔だったら実在した犯罪者をスターが主演して映画化するなんて、とんでもないことだったでしょう。 それが何故また・・と考えてみるとそこには2つの共通点がありました。 一つは犯罪者といえども人を傷つけたり殺したりと、暴力的なことはしないこと、そしてもう一つはご存知のように二人とも高齢であるということです。 90歳の麻薬の運び屋に、80歳にちかい銀行強盗、確かに興味を引く題材ではあります。 それにしても天下の2大スターが、ともに最後の主演作品(イーストウッドはたぶんですが?)で犯罪者を演じるのですから、なんとも奇妙な感じです。 年寄りが犯罪以外では興味を惹かれない時代、というわけなのでしょうか?ちょっと寂しい気もします。 というわけで同じような題材を扱った映画なのに、まったく違ったものになっているのが映画の面白いところです。 ともにみていて主役はえらくかっこよいのですが、その格好の良さというのがまったく正反対なのです。 ロバート・レッドフォードのほうはオシャレな優男で、強盗のときでも微笑みを絶やしません。 ポスターに使われている指で銃の形を作りにっこり笑ってバーンと言っている写真は、パトカー数台に追われ、銃を持った警察に取り囲まれているときの場面です。 実際にこんな行動をとったら誤解されて、すかさず撃たれてしまうはずです。 余裕でかっこよく見せるための映画の演出なのですが、これがまさしくこの映画の出来を語っています。 この映画でのレッドフォードはあくまで優男でかっこよいのです。というかそういうことを意識して撮られた映画なのです。 この映画は年をとってもかっこよいまま俳優を引退するレッドフォードへのオマージュでもあり儀式のようなものなのです。 ほかにもそれを象徴するような場面があります。 途中(馬には乗らない)というセリフを伏線としながらも、彼が警察に追われたとき馬で逃げる場面があります。 これがまた実にきまっているのです。 そしてこの映画には、どうしても彼がさっそうと馬にまたがるシーンを入れたかったように見えるのです。 両映画にはともに犯人を追う刑事役が出てきます。 この刑事と犯人の微妙な交流というのが見どころのひとつなのですが、「さらば愛しき」では刑事を演じるケイシー・アフレックの演技が素晴らしく、肝心のレッドフォードを食っていたように見えたのが誤算かも知れません。 レッドフォード演じる銀行強盗は最後まで強盗を続けますが、彼が残したのはいつも微笑んでいるというスタイルだけでした。 そしてそれはロバート・レッドフォード自身のスタイルにほかならないのです。 それに比較するとイーストウッドの運び屋は渋いです。ほんとうのおいぼれた頑固じいさんのように見えます。 そしてこちらの映画には西部劇のころから面々とつながっているアメリカ映画の伝統が木の幹のようにびしーっと入っているのです。 それはさまざまな悪行を重ねながらも最後は改心して、家庭を大事にすること、そしてそれを若い世代に伝えることです。 この映画には、はるか昔の良き時代のアメリカ映画の健全な精神がいまだに残っているのです。 「運び屋」をみているとイーストウッドが、まるで主人公そのものに見えてしまいます。 そして「さらば愛しきアウトロー」をみていると主人公がまるでロバート・レッドフォードに見えてしまうのです。 これが役者の違いというものなのでしょう。 そしてその二人の個性の違いが、この2本の映画には、はっきりと現れているのですから、やっぱり映画は面白いものです。 #
by omoshiro-zukin
| 2019-09-17 14:49
| おもしろ映画
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